「七夕」の起源・由来とは?なぜ「たなばた」と読むのか?

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七夕由来

7月7日と言えば「七夕」で、織姫と彦星が年に一度再会する日で、短冊に願いを書いて星に願う日として有名です。

1.「七夕」の起源・由来

「七夕」は「五節句」の一つで、縁起の良い「陽数」とされる奇数が重なる7月7日の夕べに行われるため「七夕の節句」と言います。

また笹を用いて行事を行うことから、「笹の節句」とも呼ばれます。

「七夕」は中国伝来の「七夕伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」に、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説や「お盆前の清めの風習」などが結びついて、現在のような形になりました。

(1)七夕伝説

七夕の起源は中国の次のような「七夕伝説(星伝説)」にあります。

天の川の西岸に住む機織りの名手・織姫と、東岸に住む働き者の牛使い・彦星が、織姫の父親である天帝のすすめで結婚したところ、仲睦まじくするばかりで二人とも全く仕事をしなくなってしまいました。
これに怒った天帝が、天の川を隔ててふたりを離れ離れにしましたが、今度は悲しみに明け暮れるばかりで働かなくなってしまいました。
そこで、仕事に励むことを条件に七夕の夜に限って再会することが許され、七夕になると天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、年に一度、再会するようになった。

天の川に輝く「夏の大三角形」(下の画像)が七夕伝説を表しています。夏の大三角形を形成している琴座のベガ織姫(織女星)、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛星)、白鳥座のデネブが二人を取り持つカササギです。

夏の大三角

(2)今の七夕行事につながる中国伝来の儀式「乞巧奠(きっこうでん)」

七夕飾り

七夕伝説の織姫と彦星の逢瀬を祝い、織姫にあやかり機織(はたお)りなどの技芸の上達を願い、みになるようにう祭()という意味の「乞巧奠」が中国で催されるようになりました。

奈良時代に日本に「乞巧奠」が伝わると、貴族は庭に祭壇を設けて供物を供え、梶の葉に和歌を書いたり、7本の針に五色の糸を通して裁縫の上達を祈ったり、角盥に張った水に星を映して眺める「星映し」などを行うようになりました。

また里芋の葉を「天帝の水を授かる傘」ととらえ、里芋の葉に溜まった夜露を墨ですって文字を書くと願いが叶うとされました。

2.なぜ「七夕」を「たなばた」と読むのか?

「乞巧奠」が「七夕の節供」に変化していきましたが、もともとは「しちせき」と読んでいました。

七夕を「たなばた」と読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説に由来します。

「棚機つ女」とは、神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り、「棚機(たなばた)」と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かみこ)を織り上げる女性のことです。

そして、中国の織姫と日本の棚機つ女が結びつき、七夕と書いて「たなばた」と読むようになったのです。

3.「七夕行事」と「お盆前の清めの風習」

仙台七夕まつり

七夕の行事には水が関係しています。これは天の川との結びつきだけでなく、お盆前の清めの風習にも関係しています。

旧暦のお盆は7月15日なので、7月7日はお盆の準備をする頃にあたり、お盆前に身を清めたり、井戸を浚って梅雨時に溜まった不浄を清めるなどの習わしがありました。

今でも「七日盆」といって、墓掃除をしたり、仏具を洗ったり、墓参りの道を掃除したりする習わしが残っています。

やがてこれらが結びついて、江戸時代に七夕の節句が「五節句」の一つに定められると、人々に親しまれるようになっていきました。

七夕の後、七夕飾りを川や海に流す風習を「七夕流し」といい、七夕飾りが天の川に流れ着くと願いが叶うと言われています。

なお、節句料理として、裁縫の上達を願って「素麺(そうめん)」が食べられます。

4.「七夕」を詠んだ俳句

「七夕」は俳句で「秋」の季語です。

「子季語」「関連季語」には「星祭」「天の川」「棚機つ女」「星合(ほしあい)」「芋の葉の露」などがあります。

・星合や 暁になる 高灯籠(宝井其角)

・七夕や 男の髪も 漆黒に(中村草田男)

・星合の 後山を払ふ 巽風(飯田蛇笏)

・遠里や 七夕竹に 虹かゝる(泉鏡花)

・妹に 七夕星を 教へけり(正岡子規)

・七夕や 些少ながらの 祝儀樽(小林一茶

・清明の 頭の上や 星の恋(夏目漱石)

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