百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を機に、古墳時代終焉を告げた薄葬令を考える

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仁徳天皇陵

1.「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の世界文化遺産登録

今年6月末~7月にアゼルバイジャンで開かれる「世界遺産委員会」で、「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録がほぼ確実な情勢となりました。

この古墳群には、円墳・方墳・前方後方墳・前方後円墳の4種類があります。日本最大の前方後円墳である「仁徳天皇陵」をはじめとして49基の古墳から成っています。このように「古墳時代」(3世紀中頃~7世紀頃)には、横穴を含めた古墳は日本全国に約16万基も作られたそうです。

2.「薄葬令(はくそうれい)」とは

これだけ膨大な数の古墳が作られた「古墳時代」に終焉を告げたのは、「大化の改新」の一環として646年に発布された「大化の薄葬令」です。

この「薄葬令」は、中国の故事に倣い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死・殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するという趣旨の詔です。

なお、中国では、後漢末期(三国時代)の205年に、三国志の英雄である曹操(155年~220年)が薄葬令を発布しています。彼は後漢を滅亡させ、三国時代の魏を建国した人物です。

3.「薄葬令」発布の背景

(1)初期の大和政権(大和朝廷)

古墳時代初期の大和政権においては、「権力の象徴」として巨大な墳墓を必要としました。これはエジプトのピラミッドと同じ発想ですね。大王から地方豪族に至るまで盛んに巨大な墳墓を作りました。

(2)継体天皇の時代

越前地方出身(近江地方出身との説もあります)の継体天皇(450年?~531年)の時代になると、中央集権体制が進み、権力の象徴としての巨大墳墓を作る意味が次第になくなってきます。

(3)推古天皇の時代

特に593年に推古天皇(554年~628年)の摂政に就任した聖徳太子(574年~622年)が冠位十二階や十七条憲法などの法整備を行ったことを機に、畿内や東国では7世紀初めまでに巨大古墳の築造は終了します。

(4)文武天皇の時代

巨大な前方後円墳の築造が終了した後は、小規模な方墳・円墳が主流となり、7世紀中頃には中国の影響で「八角墳」に葬られるようになり、7世紀末には「火葬」が導入され、文武天皇(683年~707年)は、火葬の後、八角墓に葬られました。これを最後に古墳の築造は終焉しました。

ちなみに、大化の改新の中心人物で高槻市と茨木市にまたがる阿武山古墳にひっそりとした墓がある藤原鎌足(614年~669年)も、民衆に過大な負担がかからないように質素な葬儀を望んだと伝えられています。