江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その19)驚くべき健脚老人たち

フォローする



嘉陵紀行

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第19回は最終回で、「驚くべき健脚老人たち」として、村尾正靖・村上島之丞・川路聖謨の3人をご紹介します。

1.村尾正靖(むらおまさやす)

(1)村尾正靖とは

村尾正靖は「嘉陵(かりょう)」)(1760年~1841年)と言っても分からないと思いますが、徳川清水家(御三卿)の御広敷用人(おひろしきようにん)」(*)で、文化4年(1807年)~天保5年(1834年)までの間に、江戸の郊外を旅したことを記録に残しています。

彼は60代になっても「星みて出、星みてかへる」(まだ暗いうちに出勤し、夜遅くなって帰宅する)激務をこなしていました。

多忙で神経を使う勤めの反動もあったのか、現役時代から、 束の間の余暇があると、仲間と連れ立って郊外へ日帰りで出かけるのを何よりの楽しみにしていました。

彼は若い頃、武蔵野で月を眺めたいと父に願い出ましたが許されず、ある夜「夢の中で一人武蔵野に遊んだ」ということです。

彼は「15時間かけての日帰り徒歩旅行」も実践しています。

彼の健康の秘訣は、「気儘な散策趣味」と、それによって培われた健脚だったようです。

この記録は『嘉陵紀行』とも呼ばれますが、それは彼が号を嘉陵と称したところから後世の人が名付けたものです。これが現代に『江戸近郊道しるべ』として出版されています。

(*)下の図は江戸城の「大奥」の配置図で、大奥の事務を取り扱う「御広敷用人」の詰める役所である「広敷向」が描かれていますが、「御三家・御三卿」などの大名家にもこれに準じた「大奥」がありました。

大奥配置図

(2)『嘉陵紀行』とは

『嘉陵紀行』とか『江戸近郊道しるべ』という本が江戸時代に存在したわけではなく、刊行もされていません。江戸時代は膨大な量の本が出版された時代ですが、同時に、様々な人が日記やメモ(エゴ・ドキュメント)を書いていた時代でもありました。

そのようなものは今日と同じく、商品にはならないので出版はされませんでした。その代わり、人が面白いと思ったものや後世に残したいと思ったものは、写本で伝わりました。もちろん、写本すらなく自筆本だけで後世に残る場合もあります。

村尾正靖(村尾嘉陵)は1760年(宝暦10年)に生まれて1841年(天保12年)に没しており、満年齢で81歳でした。

そこから計算すると、この旅は47歳の時に始まって74歳まで続けられたことになります。しかし毎日、毎旬、毎月という頻度ではなく、毎年というわけでもありませんでした。

1815年(文化12年)までは9年間のあいだに3回しか旅をしていません。1816年(文化13年)から急に回数が増え、この年は4回も出かけています。それから7年間は毎年2~5回出かけ、1823年(文政6年)からは1~2回に減ります。例外として、1831年(天保2年)だけは5回も出かけています。この年、嘉陵は71歳です。健脚だったことがよくわかります。

 季節も選んでいます。1月は2回だけで、あとは春と秋に集中しています。ただし1月と言っても旧暦ですから、今の2月上旬~中旬のことで、初春になります。

このようなことを考えると、武士は暇なのだ、と思うわけにはいきません。55歳ぐらいまではめったに出かけられないほど忙しかったと見えますし、旅が江戸近郊に限られ、遠方には出かけていないことも注意を惹きます。

町人や農民の「大山詣り」や「伊勢詣り」が盛んな時代、三卿の広敷用人は時間的にも経済的にも、そのようなことはできなかったのでしょう。出張もなかったと見えます

彼は暇さえあれば江戸附近の名所旧跡を探って楽しんでいましたが、それとともに大の山岳好きでした。

「府中道の記」の一節に次のような記述があります。

下石原、上石原などを過行。この辺路に石多し、故に石原と名付しにや。こゝより西南林木のはづれに玉川の向山見ゆ。夫より少し行て下染屋、上染屋に至る、こゝに原あり(上下染谷のあいだ也)江戸よりこゝ迄は、路林木の際を出没するのみにて、目にとまるながめなく、こゝに到て初て闊達として山壑の美を見る事を得。南に大山みゆ、夫より山々連綿して富士の根を遮きり峙つ。西北を顧みれば八王子、子の権現、秩父、武甲諸山をみる。(こゝにて富士の根方の山々を望み、山の皺あるをみる、其やゝ近づきたるをしるべし。秩父諸山は猶更也。其外は江戸にてみるよりは高く山聳へ、富士は江戸の観にくらぶれば、根方の山にさへぎられて、五六合を見る心地す。)玉川向山も間近くみわたされて、かたわらの民戸に腰かけてこゝの風景をうつす。

更に驚くべきことに、中仙道の桶川までわざわざ浅間山を見に出かけており、その紀行の冒頭には次のように書かれています。

この「中仙道桶川宿日帰りの旅」が前述の「15時間かけての日帰り徒歩旅行」です。

中山道上尾のあたりより、秋冬の際空晴れば、浅間の岳みゆると、過し年伊納沢吉がいひしに、いつぞは行ても見まほしく思ひしかど、仕る道のいとまなみ、今日あすともだし侍りける。今年は神無月たちぬれど、まだしぐれの雨も間遠にて、朝夕もさまで寒からねば、とみにおもひたちて寅の一点許宿を出て、火ともして行。
しかも、上尾では見えなかったので、更に桶川まで行って日光赤城榛名妙義などを眺め、夢のように淡い山を見て、百姓に教えられてそれが浅間山であることを知りました。
北の空を見渡せば、いくへの遠の雲ゐにそれかあらぬか、まゆすみのごとあは/\と見ゆる山あり、それかとおもふ物から人にとふべきよすかもなし。遥かのをちに畑うつをのこの立てるを見つけたれば「いとまなみ畑にたつをも心あらは 浅間かたけをさしてをしへよ」などいひて、畔をつたひたちよりてとへば、げに浅間はかなたの山なり。今日はことによく晴れたれど、余りのどかなれば霞みて煙はさだかにも見えず、けさの朝気にはそれとけぶりさへよく見えし。云々。、

2.村上島之丞(むらかみしまのじょう)

蝦夷島奇観

村上島之丞(島之允)(1760年~1808年)は、伊勢国(三重県)出身の「蝦夷地(北海道)開拓の先駆者」で、地図の製作者と知られる人物です。秦檍麿(はたのあおきまろ)とも称しています。

島之丞(島之允とも書く)は年少のころから旅に明け暮れることが多く、生涯を旅に暮らしました。1日に30里(約117km)を歩き、10日歩き続けても疲れを知らぬ健脚でした。

各地を旅したため地理に詳しく、画筆に巧みで、後に蝦夷地の調査に活躍しましたが、アイヌの生活を見事な筆で描いています。三重県には蝦夷地探検の松浦武四郎がいますが、彼は半世紀あまり前の先輩です。彼も武四郎も共に健脚で画筆に巧みであり、これが当時の探検家の資格だったのでしょう。

18世紀も終わり頃になると、鎖国を続けてきた日本近辺も騒がしくなってきます。特に老中・松平定信は海防を重視する政策をとります。近藤重蔵にその才能を評価された彼も、江戸湾や伊豆方面の測量・地図作成に参加したのがきっかけで、1798年(寛政10年)、幕府の一員として蝦夷地の探索に近藤重蔵らとともにクナシリ・エトロフ島まで出かけることになります。

彼は、この年から10年間、この地で活躍しますが、彼の業績をいくつかあげてみましょう。

まず第一は、アイヌの生活を観察して『蝦夷見聞記』『蝦夷島奇観』をはじめとする種々の本を著しますが、これらの著書は、現在、アイヌの習俗を知る貴重なとなっています。

第二に、函舘の近くに住みついた彼は、付近の農民に対し、直接に農耕の指導や植林、椎茸の栽培などの指導まで行っています。

第三に、測量の力量を十分に発揮していることです。『函舘表よりヲシャマンベ迄里程調』『蝦夷地之図』などの本を出し、またアイヌ語地名の研究にもすばらしいものを遺しています。

彼の門弟から優秀な人材が出ており、間宮林蔵(1780年~1844年)もその一人です。

間宮林蔵は、カラフトを含む蝦夷図の作成に大きな業績をあげますが、1808年(文化5年) に流行病の麻疹により48歳で亡くなった村上島之丞の遺志を継いで、大きな花を咲かせたと言えるでしょう。

3.川路聖謨(かわじとしあきら)

川路聖謨

川路聖謨(1801年~1868年)は、幕末の旗本で、号は敬斎です。

豊後日田代官所の役人の息子に生まれましたが、旗本小普請組川路三左衛門の養子となり、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任しました。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺しています。

彼は健康法の一つとして「ウォーキング」に励んでいました。奈良奉行を務めていた1847年、46歳の彼は14歳の息子市三郎と「かけくら」(駆けっこ)をした結果を誇らしげに手紙に書いて江戸に残してきた老母に知らせています。

30間(約55m)ほどの距離を12回走ったところ、市三郎は息切れしたが自分は何ともなかった(われこのくらゐのことにては少もくるしからず)とのことです。(『寧府紀事』)

「駆けっこ」だけではなく、「庭のむだ歩行(あるき)」や「早足歩行」も合わせて行っていたようです。

全力疾走から庭の散策まで、緩急取り交ぜた脚力増強運動を心がけることで、気ままに旅行も郊外散歩もできない「お奉行様」は、健康と若さの維持に努めていたようです。

余談ですが、永井荷風(ながいかふう)(1879年~1959年)は、43歳のわが身を「病衰の老人」と言っていますが、江戸の文人たちと「老いの意識」を共有し、十方庵敬順や村尾正靖(村尾嘉陵)と同様に熱心な散歩者でした。

敬順が江戸とその近郊を散策したように、変わりゆく東京を歩き回った荷風も、美意識を欠いた無思想な開発の風潮を嘆きかつ冷笑してやみませんでした。

1924年(大正13年)10月2日、電車で井の頭(三鷹市)を訪れた荷風は、そのあまりの変わりように「誰か桑滄の感なからむや。家に帰りて蜀山人が井頭源に遊ぶの記を読む」とこぼしています。(『断腸亭日乗』)



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする