「フランス革命」とは何だったのか?わかりやすくご紹介します

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ドラクロア・民衆を導く自由の女神

1.「フランス革命」の要約

「フランス革命(French Revolution)」は、18世紀後半(1879年~1795年)にフランスで起きた市民革命運動です。この革命によって王が絶対的権力を有した「絶対君主制」と、それまでの「封建的体制(アンシャンレジーム)」が崩壊しました。

そして「身分制の廃止」と「人権宣言の採択」、「奴隷制の廃止」といった歴史的意義があります。

「アンシャンレジーム」は第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(平民)から成り立っており、第一身分と第二身分は「特権身分」で税金が免除されており、人口の98%を占める第三身分の平民(一般市民)だけが税金を負担していました。

この革命は、フランスが新しい近代国家体制を築く契機となりました。

2.フランス革命の背景・原因

(1)啓蒙主義思想

「啓蒙主義」とは、中世的な思想のしがらみから理性によって解放されようとする18世紀ヨーロッパで支配的となった思想です。

啓蒙思想には、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーなどの「社会契約説」や「自然権」など、中世的な暗黒の社会を打破し近代化を推し進めようとする様々な思想があります。

「社会契約説」は、王の権力の正当性を聖書に求める「王権神授説」に対して、「社会は社会を構成する人々の平等な立場での同意によって成立したとする思想」です。

「自然権」は、「人々は皆生まれながら権利を持っており、いかなる権力もその権利を侵害することは許されないと考える思想」です。

(2)王室財政の窮乏と厳しい経済状況

ポンパドゥール夫人

ルイ15世(1710年~1774年、在位:1715年~1774年)の時代から、「七年戦争」(1754年~1763年)による出費や、王自身やポンパドゥール夫人(1721年~1764年)の浪費などもあり王室財政は慢性的な赤字となっていました。

そして、ルイ16世(1754年~1793年、在位:1774年~1792年)の時代になっても、イギリスの勢力拡大に対抗するための「アメリカ独立戦争」(1775年~1783年)への多額の経済的支援のほか、王自身や王妃マリー・アントワネット(1755年~1793年)の浪費なども重なり、王室財政はますます悪化しました。

マリーアントワネット

それに加えて、当時フランスは歴史的な小麦の凶作に見舞われ、パンの価格が高騰し、市民の怒りは最高潮に達していました。

マリー・アントワネットが言ったとされる「パンが無ければ、お菓子(ケーキ)を食べればいいじゃない」という言葉を、もし市民が聞いたら激高したことでしょう。ただし、「お菓子(ケーキ)」というのは誤解を生む翻訳で、彼女は「ブリオッシュ」と言ったそうです。これは「高価な小麦の割合がパンよりも少なく安価で甘い食べ物」のことです。

池田勇人蔵相の「貧乏人は麦飯を食え」発言に似ているような気もしますね。

(3)身分制への反発

第一身分の聖職者と第二身分の貴族は、「免税特権」と「政治に関与する権利」を持つ特権階級で、第三身分の平民だけが税金を負担していました。

また「三部会」(「全国三部会」と「地方三部会」)という身分制議会が中世末から存在しましたが、1615年以降召集されていませんでした。しかもこの「三部会」は各身分それぞれ同数の投票権のため、二つの特権階級が反対すれば第三身分の意見は通らないという不公平な仕組みとなっていました。現在の国際連合の常任理事国の「拒否権」のような理不尽なものでした。

このような不平等な身分制や絶対王政に対する絶望と憤りは長年にわたって鬱積し、爆発寸前になっていたのです。

(4)ブルジョワジーの勃興

18世紀のフランスでは、農業や商工業が発展してブルジョワジー(資本家)という新たな階級が生まれていました。

彼らは蓄積した資本を教育・文化に投資し、サロン・カフェ・読書クラブなどの知的文化を育て、市民階級として政治的発言力を高めていきます。

3.フランス革命の始まりと経過

(1)「三部会」の招集

財務総監のシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ(1734年~1802年)は、1786年秋に破綻寸前の財政を立て直すために「特権身分の免税を廃止して課税を平等化」することを提案しましたが、貴族たちの強い抵抗にあいました。

ルイ16世から財務長官就任を打診されたスイス出身の銀行家ジャック・ネッケル(1732年~1804年)は、「三部会」の開催を条件として就任を応諾します。ネッケルは貴族ではなくブルジョワで、フランスでは第三身分であったため、庶民に人気がありました。

そこで、ルイ16世はこの方針への支持を取り付け、貴族の反乱を抑えるために1789年5月に「三部会」を招集しました。

人口の98%を占める第三身分の人々は、「身分でなく『人口の数』を投票の基準とすること」「身分制をなくして、国民が皆平等な立場になること」を望みました。しかし当然ながら、今まで恩恵を受けて来た既得権のある特権身分の人々は強く反対し、激しく対立しました。

その結果、第三身分の人々は「独自に行動する」と宣言し、6月17日に「国民議会」を結成しました。

(2)球戯場の誓い(テニスコートの誓い)

球戯場の誓い

このように独自に歩み始めた国民議会に第二身分の貴族らも次第に合流し始め、6月19日には遂に第一身分の聖職者たちも国民議会に合流しました。

危険を感じた王弟らはルイ16世に促して国民議会の議場を閉鎖させます。これに対して「会議室を追い出されても、球戯場で十分ではないか」として、1789年6月20日にヴェルサイユ宮殿の屋内球戯場を新たな議場とし、「王室の憲法が制定され、確立されるまでは解散しない。いかなる場所でも会議を開く」ことを誓い合いました。これが「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」です。

国民議会は7月9日には「憲法制定国民議会」と改称され、憲法制定の準備を行うことになりました。

テニスコートの出会い

余談ですが、私が小学4年の時(1959年)に今の上皇様が正田美智子さんとの軽井沢のテニスコートでの出会いと恋愛の末結婚されたので、世間ではこれを「テニスコートの誓い」にちなんで「テニスコートの出会い」と呼んだものです。

(3)バスティーユ牢獄襲撃事件

バスチーユ牢獄襲撃事件

このような中で、国王政府は1789年7月11日には傭兵のスイス人連隊・ドイツ人連隊とフランス衛兵隊からなる2万の兵をパリに集結させ、武力行使も辞さない構えを見せました。

そして、同日ジャック・ネッケルは財務長官職を解任されました。これは、財政再建が進まない中、彼が王妃や寵臣たちに質素倹約を進言したりして彼らに疎まれていたためです。

1789年7月14日、国王の軍隊に対抗するために、武器を持たない市民はたくさんの武器が保管してある「バスティーユ牢獄襲撃事件」を起こし、フランス革命が始まります。庶民に人気のあったネッケル財務長官が解任されたことも引き金になったようです。

7月14日の朝、5000~8000人の民衆がまず軍病院である「廃兵院」に押し寄せました。彼らは武器の引き渡しを求め、約3万2千丁の小銃と20門の大砲を奪ったそうです。

廃兵院を後にした民衆は、数日前に廃兵院から大量の武器が運び込まれたという噂があったバスティーユ牢獄に向かいます。

午前10時頃、民衆の代表がバスティーユ牢獄の司令官に対し、隣接する地区に設置した大砲の撤去と、武器弾薬の引き渡しを求めました。しかし、司令官は大砲の撤去には応じたものの、武器弾薬の引き渡しには応じませんでした。

交渉している間にも民衆の数は増え続け、一部の民衆が牢獄になだれ込みました。戦いは午後3時半すぎまで続きましたが、国王軍から離反したフランス衛兵の一部が民衆側に加わったことで一気に形勢は逆転し、バスティーユ牢獄は陥落しました。

(4)封建制崩壊と人権宣言

自由主義貴族(身分制廃止を支持していた貴族)のノワイユ子爵、エギヨン公爵らが自ら領主権を放棄しました。彼らの領主権放棄を封建制廃止の決議が行われました。

これに続いて1789年8月4日、議会は「人間および市民の権利宣言」(人権宣言)を採択し、具体的には次のようなことが決まりました。

①教会財産の国有化

②世襲貴族の廃止

③聖職者は公務員とする

④直接税中心の平等な徴税制度とする

⑤行政区分を刷新し、地方の官僚や判事を公選とする

⑥経済活動の自由化と規制撤廃

(5)ヴァレンヌ逃亡事件(ヴァレンヌ国王一家逃亡事件)

これは、1791年6月20日から翌朝にかけて、国王ルイ16世一家が身の危険を感じてパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕され、パリに送還された事件です。

この事件は「亡命未遂事件」として衝撃をもって喧伝され、人々の間で「反革命派の貴族や聖職者が外国人とともに陰謀を企てている」「国王は国を捨てて逃亡する裏切者である」という認識が広まりました。その後、実際に数千人の貴族が亡命し、国境を越えてフランス国民に武力行使しようと準備を進めていました。

その結果、国王の権威は失墜し、共和派の主導で「立憲王政」を成立させる見込みがなくなっただけでなく、「反革命側」にルイ16世がいるという認識が広まり、国王処刑の原因にもなりました。

(6)フランス初の憲法の採択

1791年9月3日、ラファイエットらを中心とする議会の穏健派(後のフイヤン派)が主導して、フランス初の憲法が採択されました。

この憲法では、国王は拒否権を持ち、大臣を任命できる「立憲君主制」でした。君主の権力が憲法によって規制される立憲君主制は、国王側にとっては大きな妥協でしたが、ロベスピエール、カミーユ・デスモリンズ、ジョルジュ・ダントンなどの強い影響力のある革命の急進派(ジャコバン派)には受け入れられませんでした。

さらにジャコバン派は、「より共和主義的な政治形態」と「ルイ16世の裁判」に対する大衆の支持を扇動し始めました。

(7)革命裁判で国王の処刑を決定

ルイ16世とマリーアントワネット

1792年4月新しく選出された立法議会は、「国外逃亡したフランス人が反革命同盟を構築している」として、オーストリアとプロイセンに宣戦布告しました。これは戦争を通じてヨーロッパ中に革命的理想を広める狙いがありました。

一方内政面では、1792年8月10日、ジャコバン派が王宮を襲撃して国王を逮捕しました(8月10日事件)。翌月にはパリの革命勢力が何百人もの反革命派の人々を虐殺するという暴力のうねりの中、「君主制の廃止」と「フランス共和国の設立宣言」をした「国民公会」がフランスを支配することになりました。

1793年1月21日には、革命裁判で国家に対する大逆罪で死刑判決を受けたルイ16世はギロチンで処刑され、王妃マリー・アントワネットも9カ月後に断頭台の露と消えました。

(8)革命派による恐怖政治(テルール)

ロベスピエール

国王夫妻が処刑され、革命の名のもとに貴族・聖職者、ジロンド派など多くの人々の殺害を重ねる暴徒が野放しとなったフランスに対し、ヨーロッパの諸外国は警戒を強めて行きました。

内政面でも、1793年6月に過激派のジャコバン派は穏健派のジロンド派から国民公会の支配権を奪い取り、新しい暦の制定やキリスト教徒の根絶など一連の過激な措置を取りました。

そして「革命の敵」とみなされた数千人がギロチンにかけられました。裁判にもかけられず、疑わしい者は次々と処刑されるという恐怖政治の時代が10カ月ほど続きました。

ちなみに「テルール(恐怖政治)」は「テロリズム」の語源です。

(9)テルミドールの反動(ロベスピエールの処刑と革命派の逮捕)

処刑の多くはロベスピエールの命令によって行われました。あまりにも残虐な彼の反革命派への弾圧は、新たな憎しみを生み、革命政府への反感を募らせる結果となり、彼の反対派によって国民公会で彼の逮捕が可決され、1794年7月27日についにギロチンにかけられて処刑されました。

ロベスピエールらのジャコバン派が逮捕されたこの事件は、「テルミドールの反動」(または「テルミドール9日のクーデター」)と呼ばれています。

「テルミドール」とは、革命時制定された「フランス革命暦」で「熱月」という意味です。

この「テルミドールの反動」によって、実質的に一連のフランス革命は一旦終焉したとされています。後はナポレオンの登場を待つことになります。

なお、1794年2月15日に制定された現在のフランス国旗の青・白・赤の「三色旗(トリコロール)」は、フランス革命の理念である「自由・平等・博愛の精神」を表しています。

また、「メートル法」が採用されたのも、フランス革命の時です。

余談ですが、フランス革命時のギロチンによる公開処刑は、パリの中心部にある「コンコルド広場」で行われました。当時の処刑は、古代ローマのコロッセオでの剣闘士とライオンの決闘のように、一種のエンターテインメントであったようで、多くの市民が歓声を上げながら首が斬り落とされるシーンを見物したと伝えられています。

なお「ギロチン」による処刑は、日本人にはとても残虐な刑に思えますが、意外なことにフランスでは「受刑者の苦痛が少ない人道的な処刑法」とされ、1981年までこの方法で実施されていたそうです。

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