大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その5)天璋院篤姫VS.皇女和宮

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天璋院篤姫皇女和宮

1.天璋院篤姫VS.皇女和宮のバトル

皇女和宮が14代将軍家茂(1846年~1866年、在職:1858年~1866年)との婚儀のため京を発ったのは文久元年(1861年)のことでした。

和宮に期待されたのは「公武合体」(幕府と朝廷の融和を図り、安定した政治体制を実現すること)です。これは異母兄の孝明天皇も望むところでした。

朝廷は攘夷を切望していました。朝廷は幕府に攘夷を実行させることを約束させ、その引き換えに和宮の輿入れを約束しました。

和宮が京から江戸に輿入れするときの行列は3万人であったといいますので、朝廷の力やこの輿入れの重要性が想像できます

当初、和宮は「尼になっても行きたくない」と言い張って将軍の正室になることを断固拒否していましたが、天皇は幕府に対してすでに承諾済であり、拒否することは容易ではありませんでした。和宮は兄に諭されて泣く泣く江戸に下ったということです。

そのため和宮は、これまでの大奥のしきたりに従わないという条件で徳川家に嫁ぎました

しかし、和宮のその条件は大奥側も認識していたわけではありませんでした。当然双方気持ちの良い関係でスタートできるはずもなく、当初から対立することになります。

篤姫は薩摩藩の武家育ちであり、一方の和宮は公家育ちで、しかも天皇の妹という身分です。

篤姫としては武家の風習や文化を大事にしない和宮に対して苦々しいですし、和宮としては一大名の娘である篤姫に従うことは許しがたいという、それぞれが相容れない関係となります。

当然のことですが、和宮にとって、江戸の風は冷たいものでした。中でも彼女を悩ませたのが、前将軍の正室で家茂の養母でもある天璋院(篤姫)の存在でした。

初対面の時、天璋院の下座に座らされ座布団もなかったことが最初の衝撃でした。武家の礼節として姑を敬うのは当然ですが、皇女として育った和宮には耐え難い屈辱だったようです。

また結婚の翌年、天璋院は突然「二の丸御殿に移る」と言い出し、和宮を困惑させました。「天璋院が御殿を占有しているので、和宮が召使い用の部屋に住んでいる」などの風聞があったためですが、こうした行き違いも、二人の不和に拍車をかけました。

もっとも、和宮にも問題はありました。武家風の「御台所(みだいどころ)」という呼び名を嫌い、結婚早々「宮様」と呼ぶように主張したのです。

その後も、衣装や髪型、化粧法に至るまで万事、公家風を通したために、大奥女中から反発を買っていました。

嫁姑の間に挟まれながら、家茂は公武の融和を願い、辛抱強く和宮に接しました。そんな夫の態度に動かされたのが、次のようなエピソードが残っています。

浜御殿(浜離宮)に出かけた時のこと、踏み石の上に天璋院と和宮の履物だけが載せてあり、家茂の草履は下に置かれていました。和宮はすぐさま飛び降りて自分の履物をどけ、家茂の草履を置きました。それ以来、天璋院と和宮との反目は徐々に収まって行ったということです。

こんな二人の関係が変わる時が来ます。結婚して四年半後、家茂は「長州征伐」の遠征中に20歳の若さで亡くなり、和宮は静寛院と名前を改めます。そして徳川慶喜が15代将軍となります。

慶喜は大奥を変えようと動きます。もともと篤姫も含めて大奥は一橋家(水戸藩)に対して苦々しく思っていました。

慶喜がふたりの共同の敵のようなかたちとなり、篤姫と和宮の対立関係も改善していきます。そして、情勢は徳川家の内部争いを気にしてはいられなくなります。徳川幕府崩壊の危機が訪れます。

慶喜は大政奉還(1867年)しましたが、「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)で幕府軍の形勢不利と見るや榎本武揚らを戦地に残したまま船で江戸に逃げ帰り、恭順の意を示すために上野寛永寺で謹慎しました。

江戸へは官軍の攻撃が目前に迫ります。将軍不在となった江戸城では、篤姫と和宮が将軍に成り代わって城内を取り仕切っていました。篤姫と和宮からすれば、薩摩藩と朝廷というふたりの実家同士が、力を合わせて嫁ぎ先の徳川家をつぶしにかかってくるようなものです。

その時、ふたりは徳川家を、そして江戸を守るために協力し合うことにします。

篤姫は薩摩藩の西郷隆盛に対して、和宮も朝廷側にそれぞれ徳川家と江戸城を守るよう嘆願書を出します。

ふたりの動きも影響し、江戸城総攻撃は阻止することができ、徳川家の滅亡も防ぐことができました。

家茂の遺品の中にあった和宮の手紙には、「徳川に嫁した上は、徳川のために命を捨てる覚悟である」と述べられていたということです。

2.天璋院篤姫とは

13代将軍・徳川家定(1824年~1858年、在職:1853年~1858年)に三番目の正室として薩摩藩から嫁いだのが篤姫(天璋院)(1836年~1883年)です。

彼女は薩摩藩島津家の一門である今和泉島津家の当主・島津忠剛(1806年~1854年)の長女として生まれました。

しかし、1853年に従兄である薩摩藩主・島津斉彬(1809年~1858年)の養女となり、1856年に右大臣・近衛忠熙の養女となって家定に輿入れしています。

わざわざ公家の養女にまでなったのは、当時将軍の正室は公家から迎えるという慣例があったためです。

家定が「公家の娘は虚弱でよくない。次は武家出身の健康で長生きしそうな女性を迎えたい」と望んだとのことです。

ただ一方では、将軍後継問題で一橋慶喜を推している薩摩藩主・島津斉彬が、水戸嫌いの大奥の意向を慶喜支持に変えさせる狙いで篤姫を送り込んだという側面もあるようです。しかし、この説得は失敗に終わりました。

しかし幕府崩壊時の大奥の責任者であった篤姫は、島津斉彬の遺志を受け継いで、その後15代将軍となった慶喜を支援しています。

慶喜が倒幕運動の高まりの中で「大政奉還」し、「王政復古の大号令」の下で討幕軍が江戸に迫った時、討幕軍の中心となった薩摩軍に使者を送り、徳川家の存続を求め、また慶喜の「助命嘆願」に尽力しました。

特に「江戸城無血開城」には、篤姫が西郷隆盛に送った手紙の功が大きかったと言われています。江戸城明け渡しに際しても、逃げ出す幕臣がいる中で、篤姫は大奥の責任者として最後まで留まりました。

明治維新後は、政権の座についた薩摩藩からの援助も拒否し、徳川宗家で質素な生活を続けながら、徳川宗家16代・家達(いえさと)(1863年~1940年)を養育しました。なお、家達は慶喜の子ではなく、御三卿の一つである「田安家」の出身です。

彼女の毅然とした性格は、勝海舟も称賛しています。亡くなった時の所持金は、今の金額にして6万円だったということです。

3.皇女和宮とは

一般には「和宮(かずのみや)」あるいは「皇女和宮(こうじょかずのみや)」と呼ばれていますが、正式には「和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)」です。

和宮 親子内親王(1846年~1877年)は、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)(1846年~1866年、在職:1858年~1866年)の正室(御台所)となった女性です。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗りました。孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母にあたります。

なお、皇女和宮については、「替え玉説」があります。「公武合体で将軍家茂に降嫁した和宮は果たして本物だったのか?替え玉説に迫る!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご一読ください。

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