国歌「君が代」にまつわる面白い話

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君が代

「君が代」と言えば、真っ先に思い浮かぶのは、日本人選手がオリンピックで金メダルを獲得した時の表彰式で、日の丸の国旗が静かに上がって行くのに合わせて流れる「君が代」のメロディーです。

私など団塊世代には、大相撲千秋楽の表彰式の前に行われる「君が代斉唱」もなじみ深いものです。

また、「君が代」の歌詞が、戦前の天皇制を思い起こさせるような内容で国歌としてふさわしくないとの理由で、日教組系の先生が学校の卒業式や入学式などで「君が代斉唱を拒否」する事件も一昔前まではよくありました。

そこで今回はこの「君が代」にまつわる面白い話をご紹介します。

1.「君が代」とは

(1)「君が代」の元歌

10世紀に醍醐天皇(第60代)(885年~930年、在位:897年~930年)の勅命によって編纂された勅撰和歌集「古今和歌集」巻七「賀歌」巻頭に「詠み人知らず」として出ている次の歌です。

我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

歌の意味は、「あなたの寿命がいつまでも尽きませんように」という祝福を受ける人の長寿を願う歌です。あるいは「あなたを愛おしく思っています。何千年、何万年もこの気持ちは変わりません。たとえるなら、小さい石が集まってやがて大きな岩の塊となり、さらに苔に覆い尽くされたとしても」という恋歌と解釈することも可能です。

さざれ石

<さざれ石:京都の賀茂御祖神社>

なおこの歌は、紀貫之が私撰した「新撰和歌」や藤原公任が撰した「和漢朗詠集」にも入っており、「祝賀の歌」として「朗詠」に供されたり、酒宴の際にも歌われたようです。

その後最初の句は、平安時代末期ごろから次第に「我君は」から「君が代は」に変わって行ったようです。

なお、「君が代は」で始まる歌はそれ以前からあります。

福岡県志賀島にある志賀海神社の「山誉め祭、神楽歌」(神功皇后の三韓征伐の時代~200年頃)、先代旧事本紀巻六十二詠歌本紀下巻第五祝歌(欽明天皇の時代)、薩摩琵琶の「蓬莱山」の一節などです。

(2)「君が代」の歌の流布

この歌が利用された範囲は、歴史的に見ると物語・御伽草子・謡曲・小唄・浄瑠璃から歌舞伎・浮世草子・狂歌など多岐にわたり、また筝曲・長唄・常磐津、碓挽歌・舟歌・盆踊り唄・祭礼歌・琵琶歌など広範囲に及んでいます。

(3)「君」の意味

9世紀に光孝天皇(第58代)(830年~887年、在位:884年~887年が僧正遍照(816年~890年)の長寿を祝って「君が八千代」と言っている例もあるように、「君」は広く用いられており、必ずしも「天皇」だけを指すものではありませんでした。

ただ勅撰集に収められた「賀歌」について見ると、「君」の意味は時代が下るにつれて「天皇」である場合がほとんどになって来ます。

2.「君が代」が国歌になった経緯

(1)国歌制定の経緯

1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスから、エディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1カ月滞在する旨の通達がありました。その接待係に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、「日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべき」と進言し、自ら作曲を申し出ました。

(2)「君が代」が国歌になった経緯

当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(後の大山巌)が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」の中にある「君が代」を歌詞に選んで、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門に諮ったところ、2人とも賛成したのでフェントンに示し、作曲を依頼しました。

ちなみに、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」とは次のようなものです。

目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへばまた堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして鳥もなかなか驚くようぞ なかりける

(3)「君が代」の作曲者

最初にフェントンが作曲した初代礼式曲「君が代」は、フェントン自らが指揮してイギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏されました。

その後、1870年には天覧の陸軍観兵式でも吹奏されました。しかしフェントン作曲の「君が代」は、威厳を欠いており、楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多いものでした。

1876年には海軍楽長の中村祐庸が、海軍省軍務局長あてに「君が代」楽譜改訂を要望する上申書を出しています。

(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり。

この意見に基づき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントン作曲の礼式曲は廃止されました。

現在歌われている荘重でいかにも日本的な「君が代」は、1880年に宮内省の雅楽局伶員・奥好義(おくよしいさ)(1858年~1933年)によって作曲されました。ただし、公的には長らく伶人長の林広守(1831年~1896年)の作曲とされていました。

実際には奥好義と林広守の長男林広季とが合作した旋律をもとに、林広守が曲を起こしたもののようです。ドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲しました。

なお、「君が代」は「世界で最も短い国歌」です。

(4)「君が代」が国歌になった時期

1880年(明治13年)11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に、初めて宮中で伶人たちによって演奏され、公に披露されました。この時は法律では定められませんでしたが、事実上の「国歌(national anthem)」として礼式曲「君が代」が採用されました。そのテーマは「皇統(天皇の治世)の永続性」とされています。

礼式曲「君が代」の普及は、1890年の「教育勅語」発布以降、学校教育を通じて強力に進められました。

1893年の文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用されるようになり、1930年には国歌とされ、定着しました。

1999年に、「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化されました。意外と法制化は遅かったのですね。そう言えば、私が小学生から高校生までの頃は、「君が代斉唱」とは言っても、「国歌斉唱」とは言わなかったですね。

3.「君が代」以外に国歌の候補になった曲

(1)海行かば

余談ですが、日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大友家持の和歌に信時潔が曲を付けた「海行(ゆ)かば」(1937年発表)も第二国歌(準国歌)のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和されたそうです。

海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね)

山行(ゆ)かば 草生(む)す屍(かばね)

大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ

かへりみはせじ(2番:長閑(のど)には死なじ)

(2)宮内省の「御国歌」

1877年に持ち上がった構想ですが、途中で挫折したため、歌詞も楽譜も残っていません。

(3)陸軍省の「扶桑」

「君が代」が海軍省や宮内省を中心に作られましたが、陸軍省も1883年に「扶桑」を作りました。長い歌詞だけが残っています。

(4)文部省の「明治頌」

文部省は諸外国の国歌まで取り寄せて研究を行い、1884年に「明治頌」という試作曲を作っています。

研究の成果もあって西洋の国歌に近い構成となっていますが、長すぎるのが難点で、国歌候補局としては立ち消えとなりました。

(5)日教組の「緑の山河」

1947年5月に国民主権を原則とする「日本国憲法」が施行されましたが、この時「天皇讃歌である君が代は新憲法の精神と矛盾するのではないか」と問題になり、様々な国歌候補曲が作られました。

その中でも、最も君が代に強く対抗したのが1952年に日教組が発表した「緑の山河」です。ちなみに、この歌の編曲は古関裕而が手掛けています。

しかし、一般的な支持を得ることは出来ませんでした。

(6)壽屋の「われら愛す」

戦後の国歌候補曲の変わり種は、壽屋(現サントリー)が募集・制作した「われら愛す」です。

フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のような曲を念頭に置いていたようです。しかしこの曲も(5)の「緑の山河」同様ほとんど普及しませんでした。



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