「判断停止(エポケー)」とは?「思考停止」との違いは?

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思考停止

最近、洪水のように連日テレビで流されるコロナ報道を見ていると、洗脳されるように情報に流されたり、情報が錯綜して混乱してしまう危険があるように私は感じます。

そこで今回はそれに対する対処法を考えてみたいと思います。

1.一旦判断停止すべき

今は一旦「判断停止」すべき段階だと思います。

私がここで言いたいのは、コロナについては今でもわからないことが多く、対策が正しいのか謎対策・過剰対策なのか無駄な対策か、またワクチンの安全性や有効性の判定も今は困難なので、状況をよく見極めてから判断すべきだということです。

吉村大阪府知事の発言で起きた「イソジンのうがい薬騒動」のように、いたずらに情報に振り回されないことが大切です。

今我々にできることは、「自分がコロナにかからない、他人に移さない」ために、「自分がわかっている範囲で感染予防対策をしっかりやる」以外にありません。

なお本来「判断停止」とは、「哲学で、判断を一切差し控える態度のこと」で、「判断中止」とも言います。

古代ギリシャのピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)などの懐疑論者たちが、哲学上の独断的主張に反対して唱えたもので、ギリシャ語で「エポケー(epokhē)」と言います。

「哲学上の論争において、徒労に終わる真偽の判定を避け、何一つ確実で決定的な判断を下すことは出来ない」という懐疑論の立場から、判断を下すことを控える態度のことです。

ピュロンは、さまざまな哲学説の真偽を判定しようとしましたが、徒労に終わり、いたずらに苦悩を増すだけであったため、心の平静を得るために判断停止を決意したそうです。

彼はデモクリトス学派のアナクサルコスに学び、アレクサンドロス大王のインド遠征に参加し、そこでヨガ行者たちに出会って、これまでの生き方・考え方を一変させる衝撃を受けたと言われています。

「一切は無常であり、万物について何一つ積極的に『何か』であると確言することはできない。移ろいゆく現象を永遠の実在と錯覚することから魂の苦悩が始まる」と考えるようになりました。

なお、フランスの哲学者デカルト(1596年~1650年)は真の認識に至るための精神指導の規則として、この言葉を用いました。この意味での「判断停止」は「いろいろな対象を疑い、物事を根本から捉え直す」ということなので、判断回避ではなく、非常に大切な考え方だと私は思います。

エポケー

さらにドイツの哲学者フッサール(1859年~1938年)は「現象学的還元」の対概念として、この言葉を用いました。「先入観を捨てる」という意味で使っています。



2.思考停止には注意

しかし、「思考停止」になってしまわないように注することが必要です。

私がここで言いたいのは「自分の頭で考えることをせずに、テレビの報道や権威者・専門家の意見を鵜呑みにして、そのまま流されてしまうこと」です。

私はド素人ながら、国際医療福祉大学の高橋泰教授の「コロナ新仮説」や京大・宮沢准教授の「目玉焼きモデル」には説得力があるように感じています。

また、GoTo一時停止や時短要請が感染拡大防止策として有効なのか、また必要なのか疑問を持っています。

長時間にわたる大勢での飲食において、マスクなしで大声で騒いだりする「感染対策の緩み」がクラスターの原因なので、むしろそこに重点を置いて国民にしっかり注意を呼び掛けることの方が大事なのではないかと思います。

これらの正否や妥当性については、今のコロナの第3波が一旦収束した後に、第4波に備えて検証されるべきものだと思います。その頃には、「正しい対策」も確立されていることでしょう。

なお本来「思考停止」とは、「自分自身で物事について考え、判断することをやめてしまうこと」です。

思考停止が起こる理由としては、何らかの要因により権威や規範などに盲目的に従ってしまうことなどがあります。

現実にはサラリーマンの場合、仕事を円滑に進めるためには「思考停止」しないとやっていけない場合もあると思います。たとえば会社の方針に疑問を持っていても、それに目をつむらなけばサラリーマンとしてやっていけません。

しかし、サラリーマンのような組織のしがらみを離れた場合は、「思考停止」をやめて積極的に自分の頭で考えることが大切です。

3.テレビのコロナ報道に流されない、政府に騙されないようにすべき

コロナ報道では、「武漢ウイルス」「パンデミック」「インフォデミック」「入国拒否」「オーバーシュート」「スーパースプレッダー」「サイトカイン・ストーム」「コロナ禍」「2週間の隔離」「自宅待機」「移動制限」「接触感染・飛沫感染」「PCR検査」「エクモ(ECMO)」「マスク転売」「抗体検査・抗原検査」「偽陽性・偽陰性」「陰性証明」「実効再生産数」「瀬戸際」「非常事態宣言」「ロックダウン」「ソーシャルディスタンス」「オンライン授業」「テレワーク」「リモートワーク」「ニューノーマル」「アビガン」「安全で有効なワクチンと治療薬」「不要不急の外出自粛」「クラスター」「院内感染」「市中感染」「三密」「濃厚接触者」「夜の街関連」「接待を伴う飲食店」「咳エチケット」「自粛警察」「休業要請」「飲食店の時短要請」「オンライン飲み会」「アベノマスク」「フェイスシールド」「おうちで過ごそう」「マスク会食」「勝負の3週間」「年末年始は家族でステイホーム」「家の中でもマスクを」「集団免疫」「コロナ収束・終息」「変異種」「医療ひっ迫」「医療崩壊」など耳慣れない言葉やさまざまな標語が出てきました。

中には「マスク会食」のような実際には実行が難しいものや、「勝負の3週間」のように意味不明のものもありました。

いろいろな情報が錯綜し、国民の不安を煽る報道が多いように思います。

当初厚労省はコロナ相談の目安を「37.5度以上の発熱が4日以上続く。強いだるさや息苦しさがある」と国民に呼びかけていたのに、後になって加藤厚労大臣(当時)が、「誤解があった」「息苦しさや強いだるさ、高熱のいずれかの症状があればすぐに相談するように」として否定しました。

また西村担当大臣は「5人以上の会食は感染リスクが高いので控えるべき」と国民に呼びかけたのに、後日菅首相が二階幹事長らと8人でステーキ会食していたことが発覚すると、「一律5人以上の会食を禁止しているわけではない。感染対策をきちんとしていれば問題ない」と苦しい答弁をしました。

このように政府の見解がコロコロ変わり、GoToキャンペーンという施策でも朝令暮改の変更や一時停止があって旅行業者などの関係者をはじめ旅行予定者にもパニックのような大混乱をもたらしました。

本来であれば、政府がコロナへの正しい対策や対応方法をきちんと伝え、国民を安心させるべきなのですが、今の政府にはそれが期待できません。

今はいたずらにテレビ報道やネットニュースを熱心に追いかけたり、政府の呼びかけに右往左往するよりも「情報遮断」して、少し距離を置いて現状を冷静に見つめ、自分の頭で考えた方が精神衛生上も良いように思います。

4.日頃から自分の頭で考える習慣をつけることが大切

日本の今までの(今もそうだと思いますが)学校教育は、自分の頭で考える習慣をつけさせて来なかったように思います。

前に「批判的精神とピサ(PISA)型学力」という記事を書きましたが、ここでは受け身一方の学び方ではなく、能動的・批判的に学ぶことが大切だということを紹介しています。

また「この世の中には嘘がいっぱい」という記事では自分の頭で考えることが大切だということを解説しています。

「我思う、故に我在り」というのは、デカルトが「方法序説」の中で提唱した有名な命題ですね。ラテン語で「Cogito ergo sum(コギト・エルゴ・スム)」と言います。

これは、「私はあらゆることを疑ってみた。しかし、どんなに疑っても、疑っているこの私がいる(存在する)ことは、どうしても疑う余地がない」という意味です。

また「外山滋比古氏の思考の整理学」という記事で紹介した外山氏の考え方に私は同感です。

彼は「これまでの学校教育はグライダー人間の訓練所」のようなものだと指摘しています。先生と教科書に引っ張られ、受動的に知識を得る教育です。しかし、いくらグライダー能力が優秀でも、自力で飛び上がる飛行機の訓練を受けていないため、自分で物事を考えるとなると途端にまごついてしまうのです。コンピューターという人間以上に優秀なグライダー能力の持ち主が現れた今、自分で翔べない人間はいずれコンピューターに仕事を奪われてしまうと予見しています。

上野千鶴子名誉教授の東大入学式祝辞」にあった「メタ知識」も示唆に富んでいます。知識を蓄える勉強ももちろん大切ですが、その一方で、自分の頭で考える習慣をつけることも重要です。社会人になってからはなおさらです。

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