和泉式部は「浮かれ女」とも呼ばれた情熱的女流歌人。この魔性の女の真実とは?

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和泉式部

和泉式部(いずみしきぶ)は、紫式部と同じく中宮彰子に仕えた女房で、藤原道長から「浮かれ女」と呼ばれた平安時代の情熱的女流歌人ですが、詳しくご存知の方は少ないと思います。

私も紫式部と清少納言以外の「その他大勢の女房・女流歌人の一人」という程度であまり詳しく知りませんでした。

そこで今回は和泉式部についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.和泉式部とは

和泉式部(976年頃~1036年頃)は、平安時代中期の女流歌人で、父は大江雅致(おおえのまさむね)、母は平保衡(たいらのやすひら)の娘です。

父母ともに縁のあった冷泉天皇の皇后昌子(しょうし)に若くして仕え、介内侍と呼ばれた女房です。20歳前後で和泉守橘道貞(みちさだ)と結婚し、小式部内侍(こしきぶのないし)を生んでいます。紫式部・清少納言・赤染衛門らとともに「中古三十六歌仙」に選ばれています。

彼女は後に、紫式部と同時期に藤原道長の娘で一条天皇の后である中宮彰子に仕えています。なお小式部内侍も母とともに中宮彰子に仕えています。

2.和泉式部の恋愛事情

和泉式部の不倫相手

小式部内侍を生んだ後、冷泉天皇皇子為尊(ためたか)親王と関係します。これは「禁断の恋・不倫」「スキャンダル」であるため、橘道貞と離縁され父親からも勘当されてしまいます。1002年には為尊親王が当時流行していた疫病によって25歳の若さで亡くなりますが、翌年夏ごろからその弟の敦道(あつみち)親王と関係を持つようになります。これも「禁断の恋・不倫」「スキャンダル」です。しかし1007年には敦道親王も兄と同様に疫病によって26歳の若さで亡くなってしまいます。

1009年頃には中宮彰子に出仕することになり、再び入内しています。その後1013年頃、彰子の父である藤原道長に仕える18歳も年上の藤原保昌と再婚しています。1025年には娘の小式部内侍に先立たれる不幸もありました。

彼女の男性遍歴は上記以外にも次のような人が挙げられています。

藤原道綱(955年~1020年)、源俊賢(959年~1027年)、源頼信(968年~1048年)、藤原信経(969年~993年)、道命阿闍梨(974年~1020年)、藤原隆家(979年~1044年)、藤原定頼(995年~1045年)、源雅通(1118年~1175年)

このように奔放な異性関係があったため、藤原道長から戯れに「浮かれ女」と呼ばれるなどとかくの風評があったそうです。

和泉式部がある人に贈った自分の扇に、藤原道長が「うかれ女(め)のあふぎ」と落書きしたのに対して、

「こえもせむこさずもあらむ逢坂の関守ならぬ人なとがめそ」という歌で応じました。

意味は「男女のあいだの関を越えることも越えないこともあるでしょうよ。それがどうだというのですか。夫でもないあなたに咎(とが)められる筋合いはありませんよ」とぴしゃりと言い返したものです。

今風に言えば、「恋多き女」「プレイガール」「魔性の女」というのでしょうか?私は「男性を惹きつけ虜にするような可愛い才女」「あざとい小悪魔のような才女」だったのではないかと思います。恋愛していないと生きて行けない多情多感な女性だったようです。

同僚の女房だった紫式部は、彼女のことを「素行は良くないが、歌は素晴らしい」と評しています。

それにしても、彼女は皇位継承権のある親王兄弟をはじめ多くの貴族の貴公子たちを虜にしたのですから、当時の平安貴族の男性にとって大変魅力的な美しい女性だったのだと思います。

3.和泉式部の和歌

百人一首に「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」という歌があります。

意味は「私はもう長くは生きていないでしょう。あの世へ行った時の思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです」ということです。

この歌は和泉式部の死の直前に詠まれたと言われています。「恋多き女」の面目躍如ですね。

このほかにも次のような歌があります。

・物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る

・いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらむ

・つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに

・見えもせむ見もせん人を朝ごとに起きては向ふ鏡ともがな

・人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」という官能的な歌を詠んだ明星派の歌人与謝野晶子(1878年~1942年)は、和泉式部を「情熱的歌人」として高く評価しています。

そう言えば与謝野晶子も、処女歌集「みだれ髪」で女性の官能と情熱を大胆かつ斬新に歌い上げ、「情熱の歌人」と称されましたね。

4.和泉式部日記

和泉式部日記は、敦道親王との恋愛の経緯を140余首の歌で記したもので、多くの恋人の中でも敦道親王への思い入れが特に強かったようです。

為尊親王が亡くなった後に、弟の敦道親王を誘惑するようなのが次の歌です。

「かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると」

意味は「花橘の香りにかこつけて宮様をしのぶよりも、ほととぎすの声のようにあなたのお声を聞きたいのです。亡き兄宮様と同じなのでしょうか」と誘っているのです。

これに対する敦道親王の返事の歌は次の通りです。

「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや」

意味は「兄の声が聞きたいとおっしゃるのですね。同じ母から生まれ一緒に育った私の声も無き兄と変わりないのは、ご存知ではないでしょう。お訪ねして声を聞かせたいものです」と誘いに乗っているのです。



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