武田勝頼を裏切って織田方に寝返り武田氏滅亡を決定づけた小山田信茂の末路は?

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小山田信茂

戦国時代のメインの物語ではありませんが、武田信玄亡き後、織田信長・徳川家康連合軍や後北条氏との戦いを重ねた武田勝頼の重臣で、土壇場で勝頼を裏切って織田方に寝返り、武田氏滅亡を決定づけた小山田信茂の末路は興味深いものがあります。

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、この小山田信茂役を温水洋一さんが好演しました。

今回はこの裏切り者・小山田信茂についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.小山田信茂(おやまだのぶしげ)とは

小山田信茂小山田信茂役の温水洋一

小山田信茂(1539年か1540年?~1582年)は、戦国時代の甲斐武田氏の家臣の武将で、「武田二十四将」の一人に数えられています。

彼は戦国最強とも評される武田氏の譜代家老衆で、文武に優れた人物であったとされています。しかし彼を最も有名にしたのは、そのような美点ではなく、「最大の汚点」とも言うべき「裏切りによって武田氏を滅亡に追いやった」という事実です。

なお、小山田氏は代々、甲斐東部郡内領の「国衆(くにしゅう)」でもありました。

「国衆」とは、南北朝から室町時代にかけての「在地領主」およびその連合組織のことです。「国人(こくじん)」(国人領主)とも言います。

室町幕府の支配に抗して地方で小規模な領主制を形成した地頭・荘官・有力名主などの総称です。郡ないし一国規模で行動し、状況に応じて守護の被官になったり、守護排斥運動の中心にもなりました。

武田氏のような「戦国大名」と小山田氏のような「国衆」との関係は、「主君と家来」という単純な主従関係ではなく、「一種の契約関係」でした。大名が攻撃を受ければ国衆が軍を出す代わりに、大名からある程度の庇護を受けるという関係です。

従って、大名が自分たちを庇護する能力がないと判断すれば、「契約解消」(契約破棄)となり、大名を裏切ることも珍しくなかったようです。これを「返り忠(かえりちゅう)」と言いますが、要するに「寝返り」です。

(1)生い立ちから家督相続まで

彼は郡内地方の国衆・小山田氏当主の小山田出羽守信有(1519年~1552年)の次男として生まれました。祖母は武田信虎(1494年~1574年)の妹です。ちなみに信虎は武田信玄の父です。

1552年に父が病死すると、兄の弥三郎信有(?~1565年)が家督を継ぎました。そして1565年に兄が病死したため、彼が家督を相続しました。

彼は譜代家老衆に属する「御小姓衆」として、騎馬250騎を率いたとされています。この時期にすでに譜代家老衆に数えられていたことから、武田信玄の信任を得ていたものと考えられます。

(2)武田信玄(1521年~1573年)の家臣としての活動

彼は信玄の治世下で、文武にわたって活躍し、教養人としても知られていました。

1569年の北条氏との戦いである小田原城包囲の前哨戦では、彼は別働隊として御嶽城や鉢形城などを攻撃しています。

1570年には伊豆・韮山城を攻撃し、1572年には信玄に同行して「西上作戦」に従軍し、1573年の徳川家康・織田信長連合軍との「三方ヶ原の戦い」では先陣を務め、勝利に貢献ています。

一方、臨在寺の僧侶・鉄山宗純とは優れた漢詩による詩の交換をしていたという記録が、「仏眼禅師語録」にあります。また1570年には焼失した上吉田西念寺の再興に乗り出したりするなど教養人として文化面でも貢献しています。

(3)武田勝頼(1546年~15852年)の重臣としての活動

信玄存命中は順調な人生でしたが、信玄が急逝して以降は武田氏と運命を共にするように彼の人生には暗い影が差してきます。

1575年の織田信長・徳川家康連合軍との「長篠の戦い」では、敗北後に勝頼の護衛として退却に貢献しました。

その後は、かつて後北条氏の「取次」(交渉役)を務めていたことから、房総里見氏や上杉氏の「取次」として和睦の道を探りました。その一環として上杉家の家督争いである「御館の乱」(1578年)では上杉景勝を支持し、勝頼の妹である菊姫の輿入れにも関与したとされています。

しかしこのことで北条氏政との関係が悪化し、「甲相同盟」の決裂を招く結果となり、彼の領内には後北条氏が頻繁に侵攻を試みるようになりました。

(4)武田勝頼に対して土壇場で裏切る

1581年になると後北条氏の侵攻を防ぎ切れなくなった彼は、勝頼に支援を要請しました。しかし1582年には織田信長軍の侵攻が開始されたため、武田氏はいよいよ存亡の危機を迎えます。

彼は勝頼に従って着陣しましたが、同じ「取次」という立場の人物が上杉景勝側へ離反したことを知るとこれを嘆いたと言われています。また同じ「取次」であった彼も非難されたようで、被害者意識を強く持っていたようです。

しかし結局防戦すらままならなくなった武田軍は、新府城で軍議を行った結果、彼の領内に退避した後に、彼の城である「岩殿城」で籠城戦を行うことになりました。

岩殿城

このような事態に、彼は武田氏と自分たちが共倒れになることを確信し、自身の「国衆」としての立場を優先し、岩殿城へ向かう途中で勝頼を裏切ることを決断しました。

その際、人質として囚われていた老母を力づくで奪い去ったことで謀反の意思を明確に表明したとされています。

彼は途中で勝頼から離れて先に岩殿城に入り、城門を閉ざして勝頼一行を城内に入れませんでした。そして「天目山の戦い」で敗れた勝頼は「もはやこれまで」と観念して天目山で自害し、武田氏は滅亡しました。

(5)末路

その後、敵将・織田信忠(1557年~1582年)を訪ねた彼は、織田方から内応を持ちかけたわけではなく自分勝手に離反した「不忠者」として謗(そし)りを受けた後処刑されるという憂き目に遭いました。その際同時に、老母・妻・子供と血縁者もろとも処刑されました。

彼は「国衆」としての小山田氏の生き残りをかけて、勝頼を見限り、織田方に寝返ろうとしたのですが、織田信忠は主君を裏切った不忠者の彼を配下に置いたとしても、今度は自分を裏切る恐れがあると考えたのかもしれません。

武田氏一族および重臣の殲滅を考えていた織田軍にしてみれば、彼ら一族を処刑したのは当然の対応だったのでしょうが、彼にとっては不名誉な「裏切り者」としての汚名だけが残る結果となり、彼の「返り忠」は徒労に終わりました。

2.小山田信茂が裏切った背景

(1)武田氏とは「一種の契約関係」なので「返り忠」もあり得たこと

上に詳しく述べたように、小山田信茂は「国衆」でしたので、「織田信長と明智光秀・豊臣秀吉との関係」や、「徳川家康と三河以来の譜代の家臣との関係」とは異なります。

明智光秀や豊臣秀吉は「中途採用社員」でしたが、織田家の「生え抜きの社員」を差し置いて、実力で「成績」(武功)を上げて出世頭となりました。

三河以来の譜代の家臣は、徳川家の「生え抜きの社員」であり、強固な主従関係がありました。

それに比べて「国衆」の小山田信茂は、「国衆」としての自らの立場を守るために、弱い(弱くなった)大名から離れて、現在勢力の強い大名に味方しよう(寝返ろう)という打算が働くのは当然と言えば当然です。

余談ですがNHK大河ドラマ「真田丸」でも、真田昌幸(1547年~1611年)が「真田家」が生き残るために、どの大名と同盟関係を結ぶべきか苦悩していましたね。

真田昌幸は真田信之・信繁(幸村)兄弟の父ですが、武田信玄の家臣となり「信濃先方衆」(国衆)となった地方領主で、信玄・勝頼2代に仕え、武田氏滅亡後に自立後織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となりました。

本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下で所領安堵されました。上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退して徳川家康を大いに恐れさせましたが「関ヶ原の戦い」で西軍についたため改易されました。

しかし徳川家康の重臣・本田忠勝の娘(徳川家康の養女)を娶っていた嫡男・信之は徳川方の東軍につき、後に上田藩初代藩主となりました。これは徳川家に楔(くさび)を打ち込まれつつも、真田家存続を図った真田昌幸の深謀遠慮の結果です。

(2)「国衆」としての小山田氏は武田氏と過去に敵対した経緯があること

室町時代には、国衆の小山田氏と武田氏とは敵対関係にあったこともあります。彼の祖先にあたる小山田弥太郎は、武田信虎(信玄の父)との戦いで討ち死にしています。

その後も信虎との間で小競り合いがありましたが、やがて小山田氏の領国の都留郡を信虎が庇護する形で小山田氏も勢力を伸ばし、信茂が家督を継ぐころには武田氏の家臣と見なされるようになっていました。



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