大田南畝は狂歌や戯作で幕府を批判し世相を風刺したが、実は幕府の官僚だった!

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大田南畝

最近テレビの情報番組や討論番組などで、元大蔵官僚・元通産官僚・元厚生官僚・元外務官僚などが、大学教授や評論家、シンクタンク顧問などの肩書で出演し、政府や古巣の役所を批判したり、こき下ろすのをよく見ますが、度が過ぎると聞き苦しく感じることもあります。

ところで、狂歌師として有名な大田南畝(おおたなんぽ)が幕府の官僚(幕府御家人)だったことはあまり知られていません。

現代で言えば元通産省官僚で小説家・評論家の堺屋太一氏(1935年~2019年)のような人物だったのでしょうか?

そこで今回は大田南畝について分かりやすくご紹介します。

1.大田南畝とは

(1)生い立ちと名前の由来

大田南畝(1749年~1823年)は、江戸時代中期から後期の文人で、幕臣でもあり狂歌師・戯作者でもあります。江戸牛込中御徒町で御徒(下級武士)の大田正智の嫡男として生まれました。

名は(ふかし)、字(あざな)は子(しし)で通称は直次郎、号は「四方山人(よもさんじん)」「蜀山人(しょくさんじん)」、狂歌名は「四方赤良(よものあから)」、戯作名「山手馬鹿人(やまのてのばかひと)」、狂詩名「寝惚先生(ねぼけせんせい)」です。ずいぶん洒落のめしたような名前が多いようですね。

「南畝」という名前の由来は、「詩経」にある「我が(たんし)を以て載(こと)を南畝に俶(はじ)む」だそうです。

「蜀山人」の由来は、師匠の平賀源内(1728年~1780年)が「風雷山人」をまねて「四方山人」と名乗っていたところ、名前を縦書きにすると「蜀山人」に見えるのでこれに変更したとのことです。ただし、役人として大坂銅座に赴任中、中国で銅山を「蜀山」と言うことに因んで「蜀山人」と号したとの説もあります。

「四方赤良」の由来は、俳諧師の大島蓼太が「蓼太句集」の出版に際し、彼に序文を依頼しに来た時に持参した狂歌「高き名のひびきは四方にわき出でて赤ら赤らと子どもまで知る」が由来だそうです。

「山手馬鹿人」は奈良時代の歌人山部赤人をもじったものです。

(2)少年期

下級武士の貧しい家でしたが、幼少から学問や文筆に秀でていたため、札差から借金をしながら15歳で江戸六歌仙の一人でもあった内山賀邸に入門して国学と和歌を学びました。

(3)幕臣と狂歌師・戯作者の「二足のわらじ」で活躍した時代

17歳で父に倣い御徒見習いとして幕臣になりますが学問を続け、18歳頃には松崎観海に師事し漢詩文を学んでいます。

19歳の頃、それまで幕臣の職務の傍ら書き溜めていた狂歌が同門の平秩東作に見い出され、狂詩文「寝惚先生文集」を刊行し、彼を評価した平賀源内が序文を寄せました。以後狂詩文で名を得ます。ちなみに平賀源内は田沼意次と親しい間柄でした。

一方、唐衣橘洲の狂歌会に加わって頭角を現し、「山手連」を形成しています。彼は天性の機知と諧謔の才を発揮して、江戸狂歌流行の素地を作りました。狂歌界の第一人者となって、「万載(まんざい)狂歌集」「徳和歌後万載集」を編んで、当時の狂歌の一大集成をなしています。そのほか、洒落本・黄表紙にも筆を染め、天明文学界のリーダー格となりました。

1783年に「万載狂歌集」を編んだ頃から、老中田沼意次政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を受けるようになり、吉原にも通うようになります。1786年頃には、吉原の遊女を身請けして、自宅の離れに住まわせています。

しかし、老中松平定信により、田沼意次の重商主義の否定と、緊縮財政・風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指す「寛政の改革」が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されて行き、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されました。

さらに「処士横断の禁」(「処士」とは学があるのに官に仕えず民間にいる者のこと。幕府批判を防ぐための策)が発せられて、風紀に関する取締りが厳しくなり、版元の蔦屋重三郎(1750年~1797年)や戯作者の山東京伝(1761年~1816年)も処罰を受けました。蔦屋重三郎は山東京伝や大田南畝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で 知られる大手出版業者です。

幸いにも彼は咎めを受けませんでしたが、周囲が断罪されていく中で風評も絶えませんでした。それは政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられたからです。

そのため、「寛政の改革」(1787年~1793年)の時期には一時筆を折り、文壇・狂歌界から遠ざかって幕臣の職務に励みながら、随筆などを執筆するようになりました。

その後復帰し、再び戯文戯作界に重きをなしました。

(4)幕府官僚専念の中年期から晩年

1794年、45歳の彼は幕府の人材登用試験「学問吟味登科済」が創設されたのを機に受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに「甲科及第首席合格」しました。

世間では、狂歌の有名人だった彼は出世できないと揶揄していましたが、2年後の1796年には「支配勘定」に就任し、能吏ぶりを発揮しています。

1801年には大坂銅座に赴任し、狂歌を細々と再開しています。物理学者木村蒹葭堂や国学者上田秋成とも交流しています。

1812年、息子の定吉が支配勘定見習いとして召し出されましたが、精神病を患って失職します。そのため隠居を断念して働き続けました。

1823年、登城の道で転倒したのがもとで亡くなりました。享年74でした。

辞世は「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」です。

2.大田南畝の狂歌・戯作

(1)狂歌

・一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの

・いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし

・世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし

・世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい

・見渡せば金もお銭もなかりけり米櫃までもあきの夕暮 紀野暮輔

・死にとうて死ぬにはあらねど御年には不足はなしと人のいふらん 手柄岡持

・すかし屁の消えやすきこそあはれなれみはなきものと思ひながらも 紀定丸

・秋の田のかりほの庵の歌がるたとりぞこなって雪は降りつつ

・いかほどの洗濯なればかぐ山で衣ほすてふ持統天皇

・あし引の山鳥のおのしたりがほ人丸ばかり歌よみでなし

・仲麿はいかい歯ぶしの達者もの三笠の山にいでし月かむ

(2)狂歌集・戯作

狂歌狂文集「四方のあか」「千紅万紫」「万紫千紅」「蜀山百首」など

洒落本「甲駅新話」「変通軽井茶話」、黄表紙評判記「菊寿草」「岡目八目」など



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