ミケランジェロのダビデ像で有名なダビデとはどのような人物だったのか?

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ダビデ像

「ダビデ」と言えば、イタリア・フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されているミケランジェロのダビデ像(上の画像)があまりにも有名ですが、どのような人物だったのでしょうか?

1.ダビデとは

「ダビデ」(B.C.1040年~B.C.961年)は、古代のイスラエル王国の第二代目の王(在位:B.C.1000年~B.C.961年頃)です。

ダビデは羊飼いから身を起こして初代イスラエル王サウルに仕えました。サウルがペリシテ人と戦って戦死した後ユダで王位に就くとペリシテ人を撃破し、要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間王として君臨しました。

旧約聖書の「サムエル記」および「列王記」に登場し、伝統的に「詩篇」の作者の一人とされています。竪琴の名手としても知られています。

彼は「旧・新約聖書」の両時代を通じて「国民的英雄」とみなされ、「王の理想」「主(ヤーウェ)の僕(しもべ)」「祭儀の祖」などとも呼ばれています。

ちなみに「ソロモンの栄華」で有名な古代イスラエル王国第三代目の王ソロモン(B.C.1011年~B.C.931年、在位:B.C.971年~B.C.931年頃)は彼の息子です。

イスラム教においても、預言者の一人に位置付けられています。英語の男性名「デイヴィッド(David)」は彼の名に由来します。

ダビデは元は無名の羊飼いの少年でしたが、敵側の「ゴリアテ」という恐ろしい巨人を倒したことで英雄となったのです。

大理石で身の丈5.17mにかたどられたミケランジェロのダビデ像(下の画像)は、ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨んで、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現しています。

ところで、ダビデが左手に持っているものが何か気になっていた方も多いのではないかと思います。タオルではないと思いますが、大蛇か何かをつかんで肩に掛けているようにも見えますが、違います。

実はこれは「投石器」(長い布袋に石を詰めたもので、これをブンブン振り回して相手に投げつけるもの)で、ダビデは右手で布袋の口の部分を握り、左手に布袋の底の部分を持っているのです。

ミケランジェロのダビデ像ダビデ像の背面

次の画像(オスマー・シンドラー作「ダビデとゴリアテ」1888年)を見ると、ダビデが「投石器」をゴリアテに投げつけようと構えているのがよくわかります。

ダビデとゴリアテ・シンドラー

下の画像(グイド・レーニ作「ゴリアテの首を持つダビデ」1604年頃)は討ち取った巨人ゴリアテの首を持つダビデの絵です。

ゴリアテの首を持つダビデ

2.旧約聖書による生涯

(1)少年期から即位まで

イスラエルの最初の王サウルはアマレク人との戦いで、主なる神の命令に背いてその寵を失いました。

神の命を受けたサムエルは新たな王を見出して「油を注ぐ」(*)べく、ベツレヘムのエッサイという人物のもとに向かいました。

(*)「油を注ぐ」とは

古くからオリエントにおいては、王や祭司が即位する時、頭に塗油する儀式が行われており、古代イスラエル王朝時代にもこの習慣は取り入れられていました。これは神から特に選ばれ聖別されて、民の指導者・支配者として任命されることを意味します。

しかし、ダビデ・ソロモン以後ついに信望ある王が現れることがなかったイスラエルの民の間では、特に外敵の脅威にさらされる中で、次第にダビデ王のイメージと結合した理想の王の出現が待望されるに至りました。これがいわゆる「メシア(救世主)待望」です。

そこでサムエルはエッサイの第8子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注ぎました。その日以降、主の霊はサウルを離れてダビデに臨むようになり、サウルは主から来る悪霊にさいなまれるようになりました。

そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出されました。

ダビデが王のそばで竪琴を弾くと、「ヒーリングミュージック」のようにサウルの心は安らぎ気分が良くなったそうです。「ミュージックセラピー(音楽療法))」のはしりですね。

その頃、サウルとイスラエル人たちは、ペリシテ人との戦いを繰り返していました。ペリシテ最強の戦士のゴリアテがしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したので、イスラエル兵はこれを恐れました。

従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣を訪れたダビデはこれを聞いて、ゴリアテの挑戦を受けることを決意しました。

サウルの前に出たダビデは、王の鎧と武器を与えられて身にまといましたが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と「投石器」だけを持って出て行きました。

ゴリアテはダビデを見ると、「さあ来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮りましたが、ダビデは「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かってくるが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と答えました。

ダビデが石を投じるとゴリアテの額にめり込み、ゴリアテはうつ伏せに倒れました。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアテの剣を引き抜いてその首を落としました。

ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大勝しました。

その後ダビデは連戦連勝し、人々の人気が高まりました。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになりました。

サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようと、たびたび戦場に送り込みましたが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、ついにサウルの娘ミカルを娶(めと)ることになりました。

ここに至ってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下しましたが、サウルの息子ヨナタンがダビデを愛していたのでこのことを彼に告げたため、彼は死地を逃れました。

その後もサウルは幾度もダビデの命を狙いましたが、全て失敗しました。

サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデでしたが、エン・ゲディの洞窟に隠れている時、サウルがそこに入って来ました。

ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるよう勧めましたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取り、害意がないことを示しました。

また別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣した時、ダビデがサウルの陣内に侵入すると、サウルと従者が眠りこけていました。

ダビデの従者は再びサウルを討つことを勧めましたが、ダビデはこれに応じず、王の槍と水差しを持って陣営を出て、再び害意がないことを示しました。

その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテ軍に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められました。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて自害しました。

ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンに赴き、そこで油を注がれてユダの王となりました。

ユダの一族を率いたダビデは、サウルの跡を継いだイシュ・ボシェト率いるイスラエル軍と戦いを繰り返しました。

しかし信望のなかったイシュ・ボシェトは家臣に殺害され、その首がダビデのもとにもたらされました。

ここに至ってダビデは全イスラエルの王・指導者となり、エルサレムに進撃してそこを都としました。

(2)ダビデ王の治世とその晩年

ダビデ

エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げました。

ダビデがヘブロンで即位したのは30歳の時であり、7年6ヵ月の間ヘブロンでユダを治め、33年間エルサレムでイスラエル全土を統治しました。

ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これを支配下におさめました。

ダビデは中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織しました。そして税を徴収するための人口調査のような改革策をいくつか実施しています。

ダビデは偉大な王でしたが長男アムノン異母妹を犯す事件を起こしたり、アムノンを殺してダビデに謀叛を起こした三男アブロサムなど息子たちには苦労しました

年老いたダビデ王は体が暖まらなかったので、シュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせました。

そんな折、ダビデの四男アドニアダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起きました。預言者ナタンとダビデの妻バト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、バト・シェバが産んだ息子ソロモンを次の王にするという誓いを立てさせました。

祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの第三代目の王となりました。

ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、「ダビデの町」に葬られました。

ミケランジェロ作 ダビデ像(イタリア・フェレンツェ/アカデミア美術館所蔵)

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