「ウィーン体制」と「1848年革命」についてわかりやすくご紹介します

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ウィーン会議風刺画

1.「ウィーン体制」

「ウィーン体制」とは、「フランス革命」とそれに続く「ナポレオン戦争」で混乱したヨーロッパの秩序を取り戻すことを目的とした「各国の国境確定・国家体制・国際秩序の回復の合意」です。

会議は踊るウィーン会議

(1)ウィーン会議

1814年9月に、イスラム帝国であるオスマン帝国を除くヨーロッパ各国の代表者がオーストリアのウィーンに集まり、ホスト国の外務大臣メッテルニヒ(1773年~1859年)が議長となって「ウィーン会議」を開催しました。

ナポレオンがヨーロッパのほぼ全土を席巻してしまい、国境がぐちゃぐちゃになってしまっていたため、「フランス革命以前の状態に戻そう」という「正統主義」と、「以前のフランスのように飛び抜けた力を持った国が誕生すると、またヨーロッパがぐちゃぐちゃにされる恐れがあるので、国々の力の均衡を図ろう」とする「勢力均衡論」が出て来ます。

正統主義を主張したのは、フランスの外務大臣タレーラン(1754年~1838年)です。フランスはナポレオン戦争の敗戦国ですが、フランス革命によって被害を受けた国として、ちゃっかり意見を述べたのです。

しかし、各国の思惑が入り乱れてなかなか合意できず、会議は進みませんでした。「会議は踊る、されど会議は進まず」という状態です。

そんな隙を突いて地中海のエルバ島から脱出したナポレオンがフランスに戻り、皇帝に返り咲きます。(ナポレオンの百日天下)

そこで各国は慌てて妥協点を見出し、1815年6月に「ウィーン議定書」を締結し、ウィーン会議を終えました。そして団結を固めると、ナポレオンを「ワーテルローの戦い」で破り、南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉しました。

(2)ウィーン体制

この「ウィーン会議」の「ウィーン議定書」で合意されたヨーロッパの国際秩序が「ウィーン体制」です。結局、フランスの外務大臣タレーランが主張した「正統主義」を基に、フランス革命とナポレオン戦争で荒廃・混乱したヨーロッパを、それ以前の状態に復活させることによって大国の勢力均衡を図ることになりました。

(3)二つの軍事同盟

ウィーン体制を維持するために、二つの軍事同盟が結ばれました。

一つがロシアのアレクサンドル1世が提唱した「神聖同盟」です。これはキリスト教的友愛精神に基づいて平和を訴えた同盟で、イギリス・ローマ教皇・トルコ以外のほとんどの国が参加しましたが、外交的・政治的拘束力はありませんでした。

もう一つがイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアが結成した「四国同盟」です。これは元々、ナポレオンに対抗するために作られた同盟が起源で、フランスに再び革命が起きるのを防ぐためにフランスに占領軍を派遣したりしています。しかしその後、フランスも加入して「五国同盟」になります。もはやフランスの脅威よりも「反ウィーン体制」への牽制が重要と判断されたのです。

2.ウィーン体制崩壊の序章

これらの軍事同盟は、従来の君主制に立脚する列強を中心に、自由主義・国民主義運動を抑圧するものでした。

しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後の「ギリシャ独立戦争」「フランス7月革命」の動揺などから、次第に枠組みが揺らぎ始めます。

「ギリシャ独立戦争」とは、オスマン帝国からのギリシャの独立をめぐる戦争で、イギリス・フランス・ロシアの列強三国の介入によりギリシャが独立を果たした戦争です。

「フランス7月革命」とは、1830年7月27日~29日に起こった市民革命で、フランスでは「栄光の三日間」とも呼ばれています。この革命で、1815年の王政復古で復活したブルボン王朝が再び打倒されました。

その結果、ウィーン体制で構築された「正統主義」は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に就きました。

その影響はヨーロッパ各地に波及しウィーン体制を揺るがせました。

2.ウィーン体制の終焉

(1)フランス革命の影響を受けた「1848年革命」(「諸国民の春」)

フランス革命と同様の革命が他の欧州諸国でも起きたことは、あまり知られていないのではないでしょうか?

「1848年革命」とは、1848年から1849年にかけてヨーロッパ各地で起こり、「ウィーン体制」の崩壊を招いた革命です。「1848年革命」あるいは「諸国民の春」と呼ばれています。

1848年革命の波及により、大国の被支配地域を中心に「ナショナリズム」が先鋭化すると、自由主義・国民主義を抑圧する機能が維持できなくなりました。

(2)クリミア戦争

そしてウィーン体制を支えていた同盟国同士が、自国の利益のみを追求するようになると、列強間の平和を維持する役割も果たせなくなったため、イギリスとロシアの対立や「フランス第二帝政」の成立などを背景とする「クリミア戦争」(1853年~1856年)を回避することができなくなり、ウィーン体制は完全に崩壊し終焉を迎えました。

「クリミア戦争」と言えば、イギリス人看護婦ナイチンゲール(1820年~1910年)による負傷兵への献身的な看護の話で有名です。

この戦争は、フランス・オスマン帝国・イギリス・サルデーニャの連合軍とロシアとの戦争です。聖地エルサレムの管理権をトルコに要求して南下を図ったロシアに対して、イギリスなどがクリミア半島に出兵して参戦し、ロシアが敗北しました。

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