「東海道五十三次」で有名な歌川広重(安藤広重)とはどんな人物だったのか?

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歌川広重像・3代豊国筆

歌川広重(安藤広重)と言えば、「東海道五十三次」でおなじみの浮世絵師で、、葛飾北斎や喜多川歌麿、東洲斎写楽と並んで大変有名ですが、どんな人物だったのでしょうか?

1.歌川広重とは

歌川広重(うたがわひろしげ)(1797年~1858年)は江戸時代の浮世絵師で、風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも大きな影響を与えました。

彼は穏やかでおおらかな性格で、仕事は大変几帳面で誠実だったと言われています。

(1)生い立ち

江戸八代洲河岸(やよすがし)の定火消同心(じょうびけしどうしん)安藤源右衛門の長男として生まれました。安藤は本姓で、広重は号です。

1809年13歳の時に相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐことになりました。

しかし、元来の絵好きから家職を好まず、浮世絵で身を立てることにして、1823年には祖父十右衛門の実子・仲次郎にこの職を譲っています。

(2)16歳で画家デビュー

両親を失ったわずか2年後の1811年15歳の時に、当時役者絵や美人画で一世を風靡した初代歌川豊国(1769年~1825年)に入門を望みましたが、すでに門弟が多くいたために許されませんでした。

そこで仕方なく貸本屋某の紹介で、豊国と同門の歌川豊広(1774年~1829年)の門人となりました。そして翌年の1812年には、早くも豊広から「歌川広重」の号を許されています。

なお、豊広のほかにも、狩野派の画法を岡島林斎に、南画を大岡雲峰に倣い、四条派や西洋画法も学んでいます。

(3)不人気だった文政年間

文政年間(1818年~1830年)の頃は、美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開しましたが、人気が出ず振るいませんでした。

1818年には錦絵の「中村芝翫の平清盛と中村大吉の八条局」「中村芝翫の茶筅売と坂東三津五郎の夜蕎麦売」などを描いています。

(4)人気絶頂となった天保年間

しかし、天保年間(1830年~1844年)には、その活躍は目覚ましく、天保元年には従来から用いていた一遊斎(いちゆうさい)の号を改めて一幽斎(いちゆうさい)とし、天保2年ごろには初期の風景がの名作として知られる「東都名所」(全10枚。俗に「一幽斎がき東都名所」と呼ばれる)を発表しました。

さらに天保3年2月ごろには一立斎(いちりゅうさい)と再度改名しました。

「定火消同心」という幕臣でもあった彼は伝(つて)を頼りに、同年(天保3年)秋に、幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京に上りました。

年内には江戸へ帰り、天保4年からこの時に実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版「東海道五拾三次」(全55枚)を版行し始めました。

この作品には「遠近法」が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博しました。

このシリーズは天保5年中には完結しましたが、これによって広重は一躍「風景画家」としての地位と名声を確立しました。

「東海道シリーズ」は全部で37種類も描いていますが、保永堂版「東海道五拾三次」(全55枚)を凌駕する作品はありません。

この頃から天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期で、「近江八景」(全8枚)、「江戸近郊八景」(全8枚)、「木曾海道六拾九次」(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢継ぎ早に発表しました。

(5)乱作気味の弘化年間以降

弘化年間(1844年~1848年)以降は、多少乱作気味となりますが、この時期にも優品とされる風景版画がいくつかあります。

中でも1842年刊行の縦二枚続きの「甲陽猿橋之図(こうようえんきょうのず)」や「富士川雪景」、また1856年(安政3年)から没年(1858年)まで刊行され続けた広重最大数量の揃物(そろいもの)「名所江戸百景」(全118枚)、1857年に雪月花の三部に分けて描かれたという三枚続(さんまいつづき)の「木曽路の山川」「武陽金沢八勝夜景」「阿波鳴門之風景」などは広重晩年の代表作です。

風景画以外では、短冊形の花鳥図に「月に雁」「雪中のおしどり」などの優品が多く、また大錦判の魚介画にも佳作があります。

肉筆画は、初期には美人画が多いですが、嘉永年間(1848年~1854年)に最も傾注して描いた天童藩(山形県)の依頼による「天童広重」と呼ばれる風景画には、金泥(キンデイ)などを用いた豪華なものがあります。

広重は肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒のほか、絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残しており、それらを合計すると総数で2万点にも及ぶと言われています。

辞世は、「東路(あづまぢ)に 筆を残して旅の空 西のみくにの名所を見む」とされていますが、「後代の広重の作ではないか」という説もあります。

2.ライバルは葛飾北斎だった

広重は、葛飾北斎(1760年~1849年)に刺激されて「風景画」に転向し、大成功を収めました。

彼は多彩な色調と的確な写実で自然を描き、情趣ある親しみやすい日本の風景がを完成しました。近景と遠景の大胆な切り取りや、ズームアップを取り入れた斬新な構図も人々を魅了しました。

雪月花に装われた四季の風景がしみじみとした旅情とともに描かれる斬新な構図の広重の風景版画は、幕末の荒(すさ)んだ世相の中で安らぎを求める庶民の共感を得ました。

「風景画」は、歌川派全盛の時流に渓斎英泉とともに抵抗した葛飾北斎が、洋風表現を積極的に取り入れてその端緒を開き、1831年~1833年頃に発表した「富嶽三十六景」の成功によって定着させました。

1833年(天保4年)には、後を追うように広重が「東海道五十三次」を出し、これ以後しばらく両者の風景画競作時代が続きました。

広重の「東海道五十三次」の木版画は飛ぶように売れ、広重が北斎を抜いてトップの座につきます。北斎も広重に負けじと絵を描き続け、89歳で亡くなるまで制作を続けました。

広重も北斎という存在があったからこそ絵を描くことに励めたと言われています。

しかし両者の作風は対照的で、北斎の造形的配慮を優先させた厳しい景観と異なり、広重の風景画は現実の自然に近く、詩的な情趣が横溢していて親しみやすいものです。

3.ゴッホやモネなど西洋の画家にも影響を与えた

広重・北斎・モネの構図類似例

上の画像は左が広重、右下が北斎、右上がモネです。三者の構図の類似例です。

広重は、19世紀後半のフランスに発したゴッホ(1853年~1890年)やモネ(1840年~1926年)などの印象派の画家や、アール・ヌーボーの芸術家らにも大きな影響を与えました。当時「ジャポニスム」の流行を生んだ要因の一つともされています。

中でも「ヒロシゲブルー(ジャパンブルー)」と呼ばれる広重作品にみられる独特の青い色彩は欧米でも高く評価され、ゴッホの作品にはその影響が色濃く反映されています。

京都名所之内淀川

ゴッホ糸杉・ヒロシゲブルー

ゴッホは浮世絵を熱心に収集したほか、広重の作品を模写(下の画像)したことでも知られており、その傾倒ぶりが窺えます。言うまでもなく左が広重の元絵で、右がゴッホの模写です。

広重の絵とゴッホの模写広重の原画とゴッホの模写

4.歌川広重の「東海道五十三次」(保永堂版)

「箱根」までの「宿場」には、「箱根駅伝」でおなじみの「中継所」が出てきますので、楽しんでご覧ください。

(1)日本橋(にほんばし):朝之景(あさのけい)/行列振出(ぎょうれつふりだし)

日本橋

(2)品川(しながわ):日之出(ひので)

品川

(3)川崎(かわさき):六郷渡舟(ろくごうわたしぶね)

川崎

(4)神奈川(かながわ):台之景(だいのけい)

神奈川

(5)保土ヶ谷(ほどがや):新町橋(しんまちばし)

保土ヶ谷

(6)戸塚(とつか):元町別道(もとまちべつどう)

戸塚

(7)藤澤(ふじさわ):遊行寺(ゆぎょうじ)

藤澤

(8)平塚(ひらつか):繩手道(なわてみち)

平塚

(9)大礒(おおいそ):虎ヶ雨(とらがあめ)

大礒

(10)小田原(おだわら):酒匂川(さかわがわ)

小田原

(11)箱根(はこね):湖水図(こすいず)

箱根

(12)三島(みしま):朝霧(あさぎり)

三島

(13)沼津(ぬまづ)黄昏図(たそがれず)

沼津

(14)原(はら):朝之富士(あさのふじ)

原

(15)吉原(よしわら):左富士(ひだりふじ)

吉原

(16)蒲原(かんばら):夜之雪(よるのゆき)

蒲原

(17)由井(ゆい):薩埵嶺(さったれい)

由井

(18)興津(おきつ):興津川(おきつがわ)

興津

(19)江尻(えじり):三保遠望(みほえんぼう)

江尻

(20)府中(ふちゅう)安倍川(あべかわ)

府中

(21)鞠子(まりこ):名物茶屋(めいぶつちゃみせ)

鞠子

(22)岡部(おかべ):宇津之山(うつのやま)

岡部

(23)藤枝(ふじえだ):人馬継立(じんばつぎたて)

藤枝

(24)嶋田(しまだ):大井川駿岸(おおいがわしゅんがん)

嶋田

(25)金谷(かなや):大井川遠岸(おおいがわえんがん)

金谷

(26)日坂(にっさか):佐夜ノ中山(さよのなかやま)

日坂

(27)掛川(かけがわ):秋葉山遠望(あきばやまえんぼう)

掛川

(28)袋井(ふくろい):出茶屋ノ図(でぢゃやのず)

袋井

(29)見附(みつけ):天竜川図(てんりゅうがわず)

見附

(30)濱松(はままつ):冬枯ノ図(ふゆがれのず)

濱松

(31)舞坂(まいさか):今切真景(いまぎりしんけい)

舞坂

(32)荒井(あらい):渡舟ノ図(わたしぶねのず)

荒井

(33)白須賀(しらすか):汐見阪図(しおみさかず)

白須賀

(34)二川(ふたかわ):猿ヶ馬場(さるがばば)

二川

(35)吉田(よしだ):豊川ノ橋(とよかわのはし)

吉田

(36)御油(ごゆ):旅人留女(たびびととめおんな)

御油

(37)赤阪(あかさか):旅舎招婦ノ図(りょしゃしょうふのず)

赤阪

(38)藤川(ふじかわ):棒鼻ノ図(ぼうばなのず)

藤川

(39)岡崎(おかざき):矢矧之橋(やはぎのはし)

岡崎

(40)池鯉鮒(ちりゅう):首夏馬市(しゅかうまいち)

池鯉鮒

(41)鳴海(なるみ):名物有松絞(めいぶつありまつしぼり)

鳴海

(42)宮(みや):熱田神事(あつたしんじ)

宮

(43)桑名(くわな):七里渡口(しちりわたしぐち)

桑名

(44)四日市(よっかいち):三重川(みえがわ)

四日市

(45)石薬師(いしやくし):石薬師寺(いしやくしじ)

石薬師

(46)庄野(しょうの):白雨(はくう)

庄野

(47)亀山(かめやま):雪晴(ゆきばれ)

亀山

(48)関(せき):本陣早立(ほんじんはやだち)

関

(49)阪之下(さかのした):筆捨嶺(ふですてみね)

阪之下

(50)土山(つちやま):春之雨(はるのあめ)

土山

(51)水口(みなくち):名物干瓢(めいぶつかんぴょう)

水口

(52)石部(いしべ):目川ノ里(めがわのさと)

石部

(53)草津(くさつ):名物立場(めいぶつたてば)

草津

(54)大津(おおつ):走井茶店(はしりいちゃみせ)

大津

(55)京師(けいし):三條大橋(さんじょうおおはし)

京師

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