「ラブレーの十五分」とは?ラブレーの人物と生涯も紹介!

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ラブレー

皆さんは「ラブレーの十五分」という話をお聞きになったことがあるでしょうか?「ラブレー」という人の名前だけは聞いたことがあるという人が多いのではないかと思います。

そこで今回は、「ラブレーの十五分」というエピソードと、「ラブレー」とはどんな人物だったのかを分かりやすくご紹介したいと思います。

1.「ラブレーの十五分」とは

「ラブレーの十五分」とは、「レストランやカフェで飲食した後で、支払うべきお金がなくて困窮する瞬間のこと」です。

この言葉の由来は、16世紀の作家フランソワ・ラブレーにまつわる愉快なエピソードに基づくものです。真偽はよくわかりませんので「伝説」と呼ぶべきかもしれません。

彼は当時のフランス王フランソワ1世(1494年~1547年、在位:1515年~1547年)の命令でローマに使いし、6カ月の滞在の後に帰路につきましたが、リヨンまで来た時すっかりお金がなくなって、とあるホテルに缶詰めになりました。

身分を明かせば問題はなかったのですが、彼はそれをしたくなかったので、沈思黙考15分、ついに一計を案じて窮地を脱しました。それは次のような話です。

彼はまず、誰からも正体を見破られないほど変装し、「長い研究旅行から帰って来た著名な医者で、今までの研究成果を発表したい」という触れ込みで、町じゅうの医者を呼び集めさせました。

そして声まで作り声にして長広舌を振るい、医学上の極めて難しい問題について深遠な講演をしました。一同は感心してその話を聞いていましたが、彼は急に何かを思いついたように自分で全ての窓を閉め、「決して他言しないように」と念押しした後で、「これから重大な秘密を明かす」と告げました。

一同が何事かと注目していると、彼は二包みの薬を取り出しました。一つには「国王に与える毒」、もう一つには「王妃に与える毒」と書いてありました。

「この毒薬はきわめて強力で、ごく微量で瞬速に人を殺す力を持ち、いかなる解毒剤も効かない。私はこれからパリへ行って、国王と王妃及びその子供たちに与える。そして諸君のためにあの暴君を亡き者にしてくれる。人民の膏血をすすり、わがフランスを食い物にしているあの人非人(にんぴにん)一家を根絶させてやる」と演説しました。

この言葉に、一同は物も言わず顔を見合わせてこそこそと出て行き、彼は一人取り残されました。やがて町の警吏がホテルを包囲し、この毒殺者を捕らえました。

そして厳重な警戒のもと、町の有志が付き添ってパリへ護送しました。途中、彼は重大犯人として丁重に扱われ、リヨンの町の費用で豪奢な大名旅行をしました。

フランソワ1世は、重大犯人逮捕の報を受け、直々に犯人の首実検をしました。ラブレーはその時に至ってようやく変装を取り、作り声もやめて国王に一部始終を打ち明けたのです。

国王は、この「ラブレーの機知」をいたく賞賛し、引き留めて酒を振舞ったそうです。一方、リヨンの有志は、国王から「熱烈な忠誠」を褒められながらも、意外な結末に仏頂面をして戻って行ったということです。

これは、ラブレーがフランソワ1世と親密な主従関係にあり、国王が機知やユーモアを好む性格をよく知っていたからこそ出来た話です。もし、そうでなければ、彼は国王一家暗殺を計画した「謀反の疑い」で殺されていてもおかしくありません。

ちなみにフランソワ1世は、文芸の保護育成に努力した国王で、「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれています。

2.「ラブレー」とは

フランソワ・ラブレー(1483年?~1553年)は、フランス・ルネサンス最大の人文主義者(ヒューマニスト)・物語作家・医師で、「ガルガンチュア物語」「パンタグリュエル物語」の作者です。これらの物語は中世の巨人伝説に題材を取った騎士道物語のパロディーです。

彼は新興ブルジョア地主アントアーヌの末子として生まれ、修道院で神学を学んだほか、当時異端思想の源として危険視されていた古代ギリシャ語を独習し、医学を修めたのち各地の大学を遍歴し、エラスムスら人文主義者とも交わっています。1532年リヨン市の病院の医師となるとともに、同年カトリック教会に対して人間解放をうたう「パンタグリュエル物語」を発表しました。

1534年、国王側近の司教ジャン・デュ・ベレーの侍医としてイタリアへ同行し、帰国後「ガルガンチュア物語」を発表しています。

彼はカトリック教会(旧教)の因循姑息さだけでなく、当時始まった宗教改革の新教徒の狂信ぶりなども、面白おかしく風刺しました。

彼は「福音主義者」弾圧の激化のため失踪し、再度イタリアに滞在しています。1546年「第三之書」を発表するも禁書となり、国外へ亡命します。1548年のローマ滞在中に「第四之書」の一部を発表しましたが、新旧両派から攻撃されます。1552年の「完本」も禁書となりました。

彼が幸運だったのは、自らも人文主義者で宗教的寛容政策の推進者であった国王側近の重臣デュ・ベレー兄弟の庇護を受けたことでした。

彼は、同時代の物語作家はもちろん、ラ・フォンテーヌ、モリエール、スウィフト、バルザックなどにも影響を与えました。



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