五代友厚とはどんな人物だったのか?渋沢栄一との関係は?

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ディーンフジオカ演じる五代友厚

五代友厚は、渋沢栄一と同じ時代に活躍した元薩摩藩士の実業家で、「西の五代、東の渋沢」と並び称された人物ですが、今まではどちらかと言えば知名度が低かったように思います。

しかしNHKの朝ドラ「あさが来た」で、波瑠が演じる主人公の白岡あさを支える五代友厚役をディーン・フジオカ(1980年~ )(上の写真)が熱演し、多くの人に知られるようになりました。

そして、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で、再びディーン・フジオカが五代友厚役を演じています。今度は、「あさが来た」での爽やかで誠実なイメージとは異なり、薩摩藩士としてパリ万国博への薩摩藩の幕府との競合出展や幕府の威信を失墜させるために舞台裏で暗躍する姿が印象的です。

暗躍する五代友厚

この五代友厚像に対して、SNS上では、「したたかに動く五代様。あさが来たの時と違う印象でこれも素敵すぎ」「青天の五代様は爽やかナチュラルに腹が真っ黒で最高」「五代様の暗躍ぶりがカッコいい」「黒い五代様も好き」などと大好評のようです。

1.五代友厚とは

五代友厚

五代友厚(ごだいともあつ)(1836年~1885年)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての武士(薩摩藩士)・実業家です。

幕末には薩摩藩の富国強兵に尽力し、明治以降は大阪の経済立て直しに奔走し、大阪経済界の重鎮の一人となりました。「大阪の恩人」とも言われています。

大阪市の本邸跡は現在、日本銀行大阪支店となっています。当時「まさに瓦解に及ばんとする萌し」のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化・信用秩序の再構築を図りました。

(1)生い立ちと幼少・青年期

彼は、記録奉行で「三国名勝図会」の執筆者でもある五代直左衛門秀尭(なおざえもんひでたか)の次男として、天保6年に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷で生まれました。この年は、天璋院篤姫、小松帯刀、坂本龍馬土方歳三など、幕末の有名人が生まれた年でもあります。

質実剛健を尊ぶ薩摩藩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びました。

14歳の時に記録奉行で琉球交易係を兼ねていた父から、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図を模写するよう命じられ、それを参考に自作の地球儀を作ったそうです。この地球儀で世界の距離を測り、航路を想像して心密かに未来を夢見ていたようです。

なお、この長らく伝えられてきたエピソードは、事実でなかったことが最近判明しました。2016年に友厚の兄・徳夫の末裔の家から「模写版世界地図」の現物が発見され、その添え書きから、彼の父・秀尭が地球の学問を好み、薩摩藩士・石塚家に所蔵されていた幕府天文方・高橋景保が万国地図を借りたところ、最良の地図とわかってそばに置きたくなり、長男の徳夫に模写させたものだったそうです。

ただし父・秀尭は、「はかりごとの始まりはまずこの地図を見て調べることにある」との考えであったので、彼がこの地図をみることができる環境で育ったことは十分に考えられます。

1854年、彼が18歳の時にペリーが浦賀沖に来航して天下は騒然となりました。その折、彼は「男児志を立てるは、まさにこの時にあり」と奮い立ったそうです。

兄は鎖国論者でしたが、彼は開国論者の立場に立ちました。

(2)武士・役人時代

1855年、彼は薩摩藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となりました。

1856年、彼は薩摩藩から長崎の海軍伝習所に派遣されました。ここで彼は航海術・砲術・測量・数学などを学びました。

また彼は、勝海舟や榎本武揚、寺島宗則らとも親交を深めます。勝は 「積極的に外国と交易を為して、その財力で海防力を強める」という意見を持っており、勝との出会いはその後の彼の思想に大きな影響を与えました。

1862年、彼は幕府艦千歳丸に乗船して上海に渡航(この時、高杉晋作と出会っています)し、薩摩藩のために汽船購入契約を結んでいます。

(3)生麦事件と薩英戦争

1863年7月、英国艦隊7隻が、前年に起こった「生麦事件」の下手人の差し出しと被害者遺族への賠償金(25,000ポンド)を薩摩藩に要求するため、横浜から鹿児島に向かいました。「薩英戦争」の始まりです。

この時彼は、捨て身の覚悟でイギリスの代理公使ニール大佐と直談判して戦争を回避しようと、長崎でイギリス艦隊を待っていましたが、艦隊は長崎に寄らずに鹿児島に直接向かいました。

急いで鹿児島に戻った彼は、開戦に備えて寺島宗則とともに薩摩藩所有の蒸気船3隻を船奉行として率いていました。

イギリスと薩摩藩は、生麦事件の賠償問題と犯人の逮捕処罰を交渉中でしたが、薩摩藩が時間稼ぎを行って回答を引き延ばしたため、しびれを切らしたイギリスが、開戦前にもかかわらず五代らの乗った薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕する強硬手段に出ました。

捕らえられた彼と寺島は、代理公使ニールと艦隊司令官キューパー提督に尋問されましたが、尋問後提督は「卿らは薩摩藩の艦長であるから、敬意を表するため一等士官の船室を居室に充てよう。開戦後は自由に甲板に出て、戦況を視察せられよ」と待遇は親切だったようです。

そこで彼らは甲板に上がり、戦況を視察しました。天候が荒れたため、一時英国艦隊は休戦しました。

提督は「さらに市中に向かって砲撃し、兵士を上陸させようと思うが、薩摩軍の兵士は強いのか?」と彼ら二人に尋ねました。

そこで彼は「古来日本の士風は死を見ることなお帰するが如きものがある。ことにわが薩藩は武をもって鳴り、いわんや今回は国家の大事に臨み、陸上10万の精鋭は一人として生を欲する者がいない。しかも陸戦はその最も得意とするところであるから、貴国水兵の陸戦隊の上陸を決死奮戦の意気込みで待ち構えている。ゆえに陸戦においては到底貴国の勝算はないと信じている。むしろ貴国は砲火を収めて善後修好の策を執る方がよい」と答えました。

提督は彼の意見を聞き入れて砲撃を中止し、全艦隊を率いて翌日彼ら二人を捕虜としたまま横浜に退却しました。

その後、幕府側の通弁(通訳)の清水卯三郎に引き渡されました。そして清水のはからいによって横浜において、小舟でイギリス艦から脱出し、江戸に入りました。

国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をしました。

1863年末にはイギリスと薩摩藩との和議が成立し、1864年の夏頃に、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取りなしによって赦免され、帰国を許されました。

(4)薩摩藩の富国強兵に尽力

1864年夏に藩から赦免されてほどなく、彼は藩庁へ上申書を提出しました。

この「五代友厚上申書」には、薩摩藩の今後について、「富国強兵」を進めるため、具体的に「藩士の各層から選出した若者16名を英仏国に留学させ、産業革命の技術を学ばせる。また、留学に同行させる視察員はその際にヨーロッパで軍艦・大砲・小銃・紡績機械を買い付ける」、その資金は「上海貿易で捻出する」等々、具体的現実的かつ入念な計画が書かれており、誰もが感服したということです。

(5)薩摩藩遣英使節団

翌年の1865年、彼や寺島宗則・森有礼らの薩摩藩使節と留学生計19人の「薩摩藩遣英使節団」が、イギリスへと向かいました。そしてヨーロッパ各国を回り、各国の視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどを行いました。

ベルギーのブリュッセルで貴族のモンブラン伯爵と貿易商社設立契約に調印しました。これは薩摩藩財政に大きく寄与するものと期待されましたが、いろいろな要因によって失敗に終わりました。しかし、この時の経験が後の彼の経営手腕に大きな影響を与えました。

この時の交渉で、彼は「商社合力」という共同出資による事業方法を学び、1866年に帰国しました。

またこの時に、イギリスの当時世界最大の紡績機械メーカーに工場の設計と技術者の派遣を依頼し、1867年に日本初の洋式機械紡績工場である「鹿児島紡績所」が建設されました。

薩摩藩は、この英国人技師たちが訪れる前から、藩独自の技術で大幅織機を製作する技術を持っていたので、わずか1年間で洋式紡績の技術を習得しました。

その知識と技術はやがて、富岡製糸場など全国の紡績工場へ広まっていきました。

(6)パリ万博出品

1867年のパリ万博に薩摩藩が、「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に、薩摩焼等を出品したことは有名ですが、このパリ万博参加も舞台裏での彼の根回しや暗躍が大きく寄与しました。

「日本政府代表」を自認する幕府は薩摩藩に抗議しましたが、聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となりました。

日本が初めて参加した国際博覧会であるこのパリ万博には、幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武(1853年~1910年)や渋沢栄一(1840年~1931年)らが派遣され、一方薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣されました。

彼はパリ万博が開催される前年の1866年に帰国したため、渋沢栄一とはすれ違いでした。

彼は英国留学中に「我が文明を促進するの方法についての十八条」をロンドンから藩当局に建言しました。その中に「仏国万国博覧会への出品の要なること」というのがありました。

もともとフランス当局は、幕府のパリ駐在特命理事官柴田剛中に対して、参加を勧誘していたのですが、柴田は即諾しませんでした。

一方、薩摩藩では彼と新納中三(にいろちゅうぞう)(1832年~1889年)が、フランスの貴族でベルギー出身のモンブラン伯爵(1833年~1894年)との間で、いろいろな商談交渉と併せて、万博参加の話を進めていました。

薩摩藩の参加が決定して、幕府も傍観してはいられないと、ついに参加を決定しました。幕府はそれから士民の出品希望者を募りましたが、最終的には幕府・薩摩藩・佐賀藩・一般商人2名の参加となりました。

幕府は「日本大君政府」、薩摩藩は「日本薩摩太守政府」、佐賀藩は「日本肥前太守政府」と称しました。

またモンブラン伯爵の勧めで、パリ万博参加記念章として、「薩摩琉球国勲章」を立案制定し、ナポレオン3世はじめ文武官に贈りました。これによって「薩摩藩は幕府に対して独立的地位を持っている」ことを宣伝する効果を挙げました。幕府側もこれに対抗して記念章を立案しましたが、間に合わず実現には至りませんでした。

その結果、諸外国に対して「幕府と諸大名は同等の地位」であるかのような印象を与えることになったのです。

このように薩摩藩は、万博という大きな国際舞台で諸外国に対し、「薩摩藩が幕府と同等以上に強い力と影響力を持つことをアピールすることに成功しました。

これは彼をはじめとする薩摩藩の「宣伝活動」と「プロパガンダ」の成果だったと言えます。

(7)倒幕・明治時代開幕

彼は1866年に帰国すると、御小納戸奉公格に昇進し、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任しました。

長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めました。

1867年、大政奉還が行われました。

1868年、戊辰戦争が勃発すると、彼は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍しました。

新政府が成立すると、総裁・議定・参与の三職が置かれ、彼は参与の一人に任ぜられました。

ほかに薩摩藩から参与に任ぜられたのは、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・岩下方平・寺島宗則・町田久成ら錚々たる面々でした。

(8)大阪の復興

明治初期、維新変動の波を受けて大阪経済は低迷期に入っていました。これは新政府の方針で一時期形式的に金本位制となり銀主体の商取引が廃止されたことと、藩債の整理に伴う富豪や両替商の資産消失が主な原因と言われています。

彼は、新政府の参与に任じられたと同時に、外国事務掛も兼任しました。この外国事務掛はその直後に改組されて外国事務局となり、彼はその判事に任命されました。

彼は判事として大阪に在勤していましたが、1867年暮れの外国貿易を開始する大阪の開市に伴い、諸外国の公使も大阪に集まって来ました。

1868年9月、彼は大阪府判事も兼ね、大阪港の浚渫工事や波止場建設にも尽力して、大阪港での貿易拡大を図りました。また彼は、大阪に造幣寮(現在の大阪造幣局)の誘致と建設を進めました。そして初代大阪税関長に就任しました。

このように彼が行ったさまざまな活動のおかげで、大阪に貿易・経済の力が集まり、明治維新の混乱によって低迷していた大阪にようやく復興の兆しが見え始めました。

1869年5月、明治政府からこの活躍を買われ、彼は会計官(現在の財務省)権判事への異動と横浜転勤を命じられましたが、彼の横浜転勤について、大阪の官民あげての一大反対運動が起こりました。彼は大阪にとって、それほど大きな存在だったのです。

(9)大阪株式取引所(現在の大阪取引所)の設立

1874年、政府は「株式取引所条例」を発布し、東京と大阪に各1ヵ所の取引所を置くことにしましたが、この時にはこの条例は当時の経済事情と相容れないものがあったので、彼は有志と図ってその実施延期と改正を要望しました。

その後、政府は当条例の根本的改正を行い、1878年に改めて株式取引所条例を発布しました。

この条例発布を受けて、同年に彼は鴻池善右衛門・中井由兵衛・広瀬宰平・白木保三らとともに「大阪株式取引所」を発起しました。

彼はその会議の席上でのあいさつで、「事業が盛んになるか否かは、お互いの信用が厚いか薄いか如何によるものであります。ゆえにどんなことをするにしても、誠を尽くし、堅い規律を立てて、国民をして一目での信用が得られるようにしなければなりません」「会社に関する義務を果たすことはもとより頑張ってもらわねばなりませんが、平日社外の交誼においても、互いに親睦を厚くし、友情をもって、互いに助け合わねばならないと私は考える次第です」と述べています。

これは彼の事業に対する熱意・誠意と、経営哲学・理念を明確に表した発言です。

(10)大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の設立

五代友厚像

大阪株式取引所の設立の翌月には、大阪商法会議所が設立されました。彼はこの初代会頭となり、大阪の実業家の相互扶助によって、大阪商人の伝統である信用第一主義に則り、自己の利益を増すと同時に、大阪の繫栄を軸に国富の増強に資するという趣旨に基づく大きな目標を掲げました。

(11)大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立

彼は、近代国家建設のためには商業学校は必須と考えていました。大阪に先んじて東京では森有礼(もりありのり)(1847年~1889年)が1875年に「商法講習所」(一橋大学の前身)を開設していました。

そこで、簿記・商法を学ぶための学校を造ろうと、鴻池善右衛門・広瀬宰平・杉村正太郎らとともに1880年に私立大阪商業講習所を設立しました。

1882年には、大阪府立商業講習所に改称され、1885年には大阪府立商業学校に昇格し、その後現在の大阪市立大学および大阪市立天王寺商業高校の基礎となりました。

(12)その他の会社設立

このほか、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道)などの会社を設立しました。

(13)最期

このように彼は近代大阪の発展に多大な貢献をしましたが、1885年に49歳で病没しました。

2.渋沢栄一との関係

五代友厚(1836年~1885年)は幕末の薩摩藩士出身で、明治維新後に主に大阪経済界で活躍しましたが、同じ時期に武蔵国の農民出身の渋沢栄一(1840年~1931年)は、東京を中心に「日本資本主義の父」と言われるほどの活躍をしました。

二人とも奇妙な縁から「経済界の巨人」となった人物です。

幕末の動乱期に五代は薩摩藩から、渋沢は幕府からヨーロッパに派遣されて、資本主義の仕組みを学んだことから、世界が開けてきました。

帰国後は二人とも、政治の世界よりも経済の世界に軸足を置いて活躍しました。

残念なのは、五代が明治18年に49歳の若さで亡くなったことです。渋沢が昭和6年に91歳で亡くなったのと相当な開きがあります。

彼らの経済活動の期間は明治に入ってからなので、五代の18年に対して渋沢は約60年と3倍以上の差があります。

五代がもう少し長生きしていれば、さらに別の業績を挙げたかもしれませんね。

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