飛鳥時代の蘇我氏一族の天皇家との外戚関係などの結び付きと権勢は、平安時代に摂関政治を行った藤原道長らの藤原氏や、武家の棟梁で天皇の外戚となり一時の栄華を誇った平清盛らの平家一門のそれとよく似ています。
蘇我稲目・馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の四代にわたって、権勢を誇った蘇我氏ですが、645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が起こしたクーデター「乙巳の変(いっしのへん)」によって滅亡しました。
今回は蘇我氏四代についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.蘇我稲目とは
蘇我稲目(そがのいなめ)(506年頃?~570年)は、蘇我高麗(そがのこま)(生没年不詳)の子で古墳時代の豪族です。
天皇家との結びつきは、蘇我稲目の時からありました。536年、稲目は第28代宣化天皇の即位時に大臣となり、540年に第29代欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を天皇の后としています。
堅塩媛の子の大兄皇子は第31代用明天皇となり、炊屋姫は第33代推古天皇となっています。小姉君の子の泊瀬部皇子は第32代崇峻天皇となっています。
稲目の時、大連(おおむらじ)の物部氏(もののべし)と激しい権力闘争を行っており、「仏教受容問題」でも、稲目が仏教受容を主張したのに対し、物部尾輿(もののべのおこし)は仏像の廃棄を奏上して対立しました。
この「仏教受容問題」は決着がつかず、子の蘇我馬子と物部守屋の代まで引き継がれました。
2.蘇我馬子とは
「蘇我馬子(そがのうまこ)」(551年?~626年)は、蘇我稲目の子で飛鳥時代の豪族です。邸宅に島を浮かべた池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれました。
572年、第30代敏達天皇の即位時に大臣となり、以降54年にわたり第31代用明天皇・第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の四代に仕えて権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。
ちなみに彼は権力闘争を続けていた物部守屋(もののべのもりや)(?~587年)の妹を妻としています。
「仏教受容問題」(崇仏問題)では、排仏派の物部守屋や用明天皇の異母弟で皇位に就きたがっていて守屋に与した穴穂部皇子(あなほべのみこ)(?~587年)らと対立し、諸皇子・群臣を味方に引き入れて587年に排仏派を殺害し、朝廷における地位を確立しました。
その後、自身の擁立した崇峻天皇を殺害し、推古天皇を立てて聖徳太子とともに朝政を執りました。
彼は娘の河上媛を用明天皇の后に、法提郎女(ほていのいらつめ)を舒明天皇の后にしています。古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は法提郎女と舒明天皇の間の息子ですが、中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の疑いで殺されました。
また、同じく娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を聖徳太子に嫁がせています。ちなみに彼らの息子が山背大兄王です。
2.蘇我蝦夷とは
蘇我蝦夷(そがのえみし)(586年?~645年)は、蘇我馬子の子で、飛鳥時代の豪族です。
第33代推古天皇の末年から第34代舒明天皇・第35代皇極天皇の三代にわたって大臣として権勢を振るいましたが、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らの起こしたクーデター「乙巳の変(いっしのへん)」で息子の入鹿が暗殺され、自らも誅される恐れが出てきたため、自邸に火を放って自害しました。
推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため、聖徳太子の子の山背大兄王と敏達天皇の孫の田村皇子との間で皇位継承問題が起こり、山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)らの反対がありましたが、彼はこれを攻め滅ぼして田村皇子を皇位に就かせ、舒明天皇としました。
また、自らの屋敷を「宮上の門」(みかど)と呼ばせたり、民衆を大動員して今来に自分と息子入鹿の墓(双墓)を作らせ、「大陵」「小陵」と呼ばせるなど専横を極めました。ちなみに「陵(みささぎ)」は天皇の墓のことです。
3.蘇我入鹿とは
蘇我入鹿(そがのいるか)(?~645年)は、蘇我蝦夷の子で、飛鳥時代の豪族です。
第35代皇極天皇の時の権臣で、その権力は大臣である父の蝦夷よりも勝っていたと言われています。
彼は聖徳太子の死後、643年に舒明天皇崩御に伴う皇位継承争いが起きると、上宮王家を排斥し、舒明天皇の皇子で馬子の娘が産んだ古人大兄皇子を即位させるために、太子の息子の山背大兄王一族を襲って自害に追い込みました。
結局自分たちがコントロールしやすい舒明天皇の皇后を皇極天皇として即位させました。
644年には甘樫丘(あまかしのおか)に家を建て並べ、父の家を「宮門(みかど)」、自分の家を「谷(はざま)の宮門」と呼び、自分の子を「王子」と称して家を武力で固めました。
この強圧政策のために人心は動揺し、645年の「乙巳の変(いっしのへん)」を招く一因にもなりました。
「乙巳の変」が起こると、彼は皇居の大極殿で中大兄皇子(後の天智天皇)に暗殺されました。