明治時代の「お雇い外国人」(その6)ハインリヒ・フォン・シーボルトとは?

フォローする



シーボルトと息子の小シーボルト

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第6回はハインリヒ・フォン・シーボルトです。

1.ハインリヒ・フォン・シーボルトとは

ハインリヒ・フォン・シーボルト

ハインリヒ・フォン・シーボルト( Heinrich von Siebold)(1852年~1908年)は、オーストリアの外交官・考古学者です。

父は江戸時代後期に長崎オランダ商館の医師として来日したドイツ人の医師・生物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年~1866年)で、研究分野において父と区別するため「小シーボルト」とも呼ばれます。兄は外交官で、井上馨外務卿の秘書となったアレクサンダー・フォン・シーボルト(1846年~1911年)、異母姉に日本人女性として初の産婦人科医となる楠本イネ(1827年~1903年)がいます。ドイツ出身ですが、後に外交官としての功績が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得ました。

シーボルトの息子と娘

2.ハインリヒ・フォン・シーボルトの生涯

(1)生い立ち

1852年にプロイセン王国領ライン地方のボッパルトで父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと母ヘレーネ・フォン・ガーゲルンの次男として生まれました。2度の来日を終え、3度目の来日を準備する父の研究資料整理を手伝ったことで、ハインリヒは日本に強い興味と憧れを覚えました。

(2)来日

父の死により、ハインリヒの親子揃っての来日は叶いませんでしたが、父が幕府外交顧問として再来日した際に同行した兄のアレクサンダーが父の帰国後も日本での職務についており、徳川昭武使節団に同行し一時帰国したため、その兄の再来日に同行して1869年(明治2年)初来日を果たしました。

日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝い中に学んだことを活かし様々な研究活動を始めました。

勤務先となったオーストリア=ハンガリー帝国公使館では通訳・書記官を経て代理公使を務め、後にその功績を称えられて同国の国籍を得ました。1891年には同国の男爵位を与えられました。

日本が初の正式参加となった「ウィーン万国博覧会」(1873年)では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、同万博には通訳としても帯同、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収めました。その際に選定に共に関わった町田久成、蜷川式胤らとはその後も親交を続けました。

彼らとは好古仲間として、幾度も古物会を開催し、参加者の中には9代目市川團十郎もいました。この頃の日本ではいわゆる「考古学」という学問が成立をしておらず、ただ好古家(古物愛好家)達が珍品を収集・交換し、それぞれの品に特別な名前をつけて楽しんでいる程度でしたが、蜷川たちはここでハインリヒと交流することで当時最先端であった欧州の考古学を学び、またハインリヒはここで彼らから先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学びました。

(3)日本での生活とハインリヒの家族

彼は日本橋の商家の娘岩本はなと結婚し、2男1女を儲けました。長男はハインリヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折。その際の夫婦のやり取りを綴った手紙は子孫である関口家に保存されています。2008年、ハインリヒの没後100年に開催の記念展で公開されました。

その手紙には我が子を失った悲しみと共に、当時共同居していた異母姉楠本イネに宛てて、憔悴しきっているであろう愛妻はなへの心配も綴られています。

その後、生まれた次男・於菟(オットー)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格しましたが、創作活動中に体調を崩して25歳の若さで没しました。

ハインリヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われています。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として、若くして子供を亡くしたはなを指名しました。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めました。ハインリヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けました。

(4)ハインリヒの帰国と死

晩年になり重病を患ったハインリヒは、公使館の職を辞して帰国。1907年にウィーンで手術を受けて一時回復し、南チロル地方のフロイデンシュタイン城で呉秀三の『シーボルト』の翻訳に着手しましたが、親友で主治医でもあるエルヴィン・フォン・ベルツ博士の懸命の治療の甲斐もなく、フロイデンシュタイン城にてその生涯を終えました。享年56。

3.ハインリヒ・フォン・シーボルトの功績

日本において、ハインリヒが残した功績は数多くあります。兄・アレクサンダーが父の外交的才能を受け継いだのに対し、ハインリヒは父の研究分野における才能を色濃く受け継ぎました。

考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘。『考古説略』を出版して日本に初めて考古学という言葉を根付かせました

「お雇い外国人」のエドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させました。しかし、1878年から1879年に日本での考古学的活動を終えています。

兄・アレクサンダーと共に、父の大著『日本』の完成作業を行い、当時欧州で人気であった欧州王家の日本観光に随行し、彼らの資料蒐集に関わったことも後の「ジャポニスム」(日本趣味、日本ブーム)の起点にもなりました。

現在欧州に散らばる「シーボルト・コレクション」はその数が数万点にも及び、その約半数は小シーボルトことハインリヒの蒐集したものであると言われています。

4.ハインリヒ・フォン・シーボルトの交友関係

(1)九代目市川團十郎

九代目市川團十郎

歌舞伎役者の九代目市川團十郎(1838年~1903年)は好古仲間で、赤坂のハインリヒ邸で古物会を共に開催しました。

(2)蜷川式胤

蜷川式胤

官僚の蜷川式胤(にながわのりたね)(1835年~1882年)も好古仲間です。「ウィーン万国博覧会」の頃にハインリヒと知り合い交遊を深めました。

(3)エルヴィン・フォン・ベルツ

蜷川式胤

医師で「お雇い外国人」のエルヴィン・フォン・ベルツ(1849年~1913年)は、ハインリヒの親友で、主治医でもあります。家族ぐるみでの付き合いがあり、ベルツの日記にはハインリヒ夫婦と子供がベルツの別荘に海水浴に来たことや、ベルツがハインリヒの目黒の別荘を良く訪問していたこと、アレクサンダーやハインリヒ夫婦と共に歌舞伎見物をしたことなどが書かれています。

(4)大隈重信

大隈重信

早稲田大学の創設者で首相も務めた大隈重信(1838年~1922年)は、「ウィーン万国博覧会」(1873年)に向け、出品選定をハインリヒに依頼しました。

(5)ハインリッヒ・エドムント・ナウマン

ナウマン

ドイツの地質学者で「お雇い外国人」のハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854年~1927年)は、2、3ヵ所の貝塚を発見し、「大森貝塚」の存在を伝えたと言われています。

(6)十二代目守田勘彌

十二代目守田勘彌

歌舞伎役者の十二代目守田勘彌(1846年~1897年)は、親友です。後にハインリヒは外交官の仲間を誘い、彼の新富座へ引き幕を贈っています。

(7)福沢諭吉

福沢諭吉

慶応義塾大学の創設者で啓蒙思想家の福沢諭吉(1835年~1901年)は、娘の芸事指導を、ハインリヒ夫人の岩本はなに依頼しました。

(8)榊原鍵吉

榊原鍵吉

榊原鍵吉(1830年~1894年)は、「最後の剣客」と呼ばれた直心影流剣術の名手です。ハインリヒとは友人で、フェンシングの名手であったハインリヒは後にベルツと共に彼に入門しています。

5.ハインリヒ・フォン・シーボルトの親族

(1)楠本イネ

シーボルトの娘楠本イネは異母姉であり、ハインリヒ夫婦とは同居をしていた時もあります。日本人女性初の産婦人科医で、ハインリヒの長男(夭折)はイネが助産をしました。

(2)アレクサンダー・フォン・シーボルト

シーボルトの長男アレクサンダー・フォン・シーボルトは兄で、父シーボルト再来日時に日本に来ています。1859年(安政6年)以来日本に滞在、イギリス公使館の通弁官(通訳)を勤め、1867年(慶応3年)徳川昭武らのフランス派遣(「パリ万国博覧会」のため)に同行しています。

陸奥宗光・井上馨などの明治元勲との付き合いも深く、後年は井上馨外務卿の特別秘書となりました。著書に『シーボルト最後の日本旅行』があります。

(4)次女ヘレーネの末裔とハインリヒの末裔

ヴュルツブルクには、次女ヘレーネの末裔ブランデンシュタイン・コンスタンティン・ツェッペリン(次女子孫がツェッペリン伯爵家と婚姻)が会長を務める「ドイツシーボルト協会」が既に存在し、また日本では次男ハインリヒの末裔関口忠志や国内のシーボルト研究家が集まり「日本シーボルト協会」が2009年に発足しています。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村