家斉の正室・近衛寔子は薩摩藩主の娘で、近衛家の養女となり大奥で権勢を振るう

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徳川家斉

江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。

二番目に多いのが11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。

1.家斉の正室・近衛寔子(広大院)とは

近衛寔子・広大院

家斉の正室・近衛寔子(広大院)は薩摩藩主の娘で、近衛家の養女となり大奥で権勢を振るいました。何だか幕末に十三代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫とよく似ていますね。

「近衛寔子(このえただこ)」(「広大院(こうだいいん)」)(1773年~1844年)は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)です。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))。

市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされますが異説もあります。養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものです。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいます。

彼女は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていましたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられました。

その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めました。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育されました。

10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となりました。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからです。

このとき、「この婚約は島津重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言である」と実父の重豪は主張しました。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなりました。茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の寛政元年(1789年)に行われました。

茂姫は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入りました。また、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年)に島津家と縁続きであった近衛家および近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえ ただこ)」として結婚することとなりました。

島津重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係でした。

この結婚により、実父の津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となりました。

一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追い出し、自らは重豪の正室同様にふるまいました。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は、後の「近思録崩れ」(*)の原因の一つとなりました。

(*)「近思録崩れ(きんしろくくずれ)」とは、1808年から1809年にかけて薩摩藩で勃発したお家騒動です。処分された秩父季保らが『近思録』(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募ったことから命名されました。

寛政8年(1796年)には家斉の五男・敦之助を産みます。御台所が男子を出生するのは二代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来でした。ただし、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家が再興されてその当主となりました。この慶事により茂姫および島津重豪の威勢はますます盛んになりました。

しかし、敦之助は3年後の寛政11年(1799年)に夭逝しています。また、寛政10年(1798年)にも懐妊しましたが流産しています。

とはいえ、御台所となって以来、側室が生んだ数多い家斉の子供は、すべて「御台所御養」として茂姫の子とされ、正室としての権勢はゆるぎのないものでした。

異母弟で9代藩主の島津斉宣が隠居後、財政難を理由に幾度も幕府に要請した薩摩帰国が却下されたのは、広大院の意図によるものとされますが、その理由は享和元年の母・お登勢の方(市田氏)死後に斉宣が市田一族を薩摩藩政から排除したことに対して広大院が激怒したことにあるといわれ、御台所の権威を背景に、薩摩藩政にも大きな影響力を及ぼしました。

2.家斉の側室・お美代の方とは

最も有名な側室「お美代の方」については、「オットセイ将軍・徳川家斉は側室40人!?側室お美代の方の父は破戒僧・日啓!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

ところで、「お美代の方がなぜ家斉に色々とおねだりができたのか」という疑問があります。本来大奥の寝所では、将軍とお相手の布団のすぐ隣には、背中を向けた「添寝役」の女中がいて、側室が将軍におねだりをしないか会話の内容を監視していたはずです。ついたてを挟んで2人の尼さんが更に聞き耳を立てて監視していたはずです。

可能性としては、お美代の方が添寝役の女中や尼さんを買収していたか、大奥以外で(たとえば養父の中野清茂の邸で)会って、実父や養父についておねだりしていたのではないかと考えられます。

3.徳川家斉とは

11代将軍・徳川家斉(1773年~1841年、在職:1787年~1837年)は、「御三卿」の一つである「一橋家」の出身です。一橋徳川家の2代目・徳川治済(はるさだ/はるなり)(1751年~1827年)の長男です。

御三卿である一橋家は、宗家の跡継ぎが途絶えた場合、十分に将軍の座を狙える位置にありました。

10代将軍・徳川家治(1737年~1786年)の嫡子・家基が早世したため、1781年に一橋家から8歳の家斉が家治の養子に入ります。

家治の跡継ぎには、御三家・御三卿の中で、今後男子を数多く授かる可能性のある若い人が理想的だったため、家斉に白羽の矢が立ったようです。

家斉は家治が亡くなった後の1787年に15歳で将軍となり、1837年まで将軍の座に君臨しました。将軍職を次男の家慶に譲った後も死ぬまで大御所として実権を保ちました。

家斉の第一の特色は「最長の将軍在位期間(50年)」です。しかし彼は善政を行ったわけではなく、老中松平定信に行わせた「寛政の改革」(1787年~1793年)も失敗しました。

家斉は松平定信を失脚させた後は、奢侈な生活を送るようになりました。8代将軍・吉宗が「大奥」を大幅に整理縮小し、質素倹約に努めたにもかかわらず、家斉は大奥を過去最大級に巨大化させ、3,000人近くの女性を抱えていたそうです。

彼が豪奢な浪費生活をするのに歩調を合わせて、大奥も贅沢三昧となったため、幕府財政はあっという間に傾きました。

彼の将軍在位中に幕府財政は悪化の一途を辿っただけでなく、賄賂政治も復活するなど腐敗も進み、大坂では「大塩平八郎の乱」(1837年)が起きています。

第二の特色は「側室と子供の多さ」です。一説では40人以上の側室を持ち、53人の子供を産ませたと言われています。

彼は精力絶倫で知られ、精力を維持するために「オットセイの粉末」を服用していたことから、「オットセイ将軍」と呼ばれていたようです。

当時は「お家存続」のために側室を持つことが当たり前とされていましたが、あまりにも度が過ぎたようです。彼が好色だったという面は否定できません。

しかし彼としては「子が多ければそれだけ他家に養子に出せる、あるいは嫁がせることができ、徳川家の勢力を安泰にできる」という大義名分があったのかもしれません。

そしてもう一つ、彼の父(徳川治済)からの二代にわたる「徳川家の血筋を一橋家の血筋で統一するという野望も影響していたかもしれません。

実際、彼の次男・家慶は12代将軍となり、孫・家定は13代将軍となっています。14代将軍は家定の養子となった紀州藩主・家茂ですが、15代将軍は水戸藩から一橋家に入った慶喜です。

その他の子女も全員が、徳川家の親類大名家をはじめ全国各地の大名家に養子に入ったり、嫁いだりしています。その結果、水戸藩を除く御三家・御三卿は全て家斉の血筋に塗り替えられました。



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