孔子は「野合」で生まれた子だった!?「野球」は正岡子規の造語だった!?

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孔子

「野」という漢字は、「野原」「広野」「野球」のように広々とした伸びやかな良いイメージの言葉にも使われていますが、「粗野」「野蛮」「野合」などのように悪いイメージの言葉にも使われています。

1.「野」と「埜」という漢字の成り立ち

野・埜という漢字の成り立ち

「野」は「会意兼形声文字」(里+予)です。

「区画された耕地の象形と土地の神を祭るために柱状に固めた土の象形」(耕地・土地の神を祭るための場所のある「里」の意味)と機織りの横糸を自由に走らせ通す道具の象形(「のびやか」の意味)から広くてのびやかな里を意味し、そこから「郊外」「の」を意味する「野」という漢字が成り立ちました。

「埜」は「会意文字」(林+土)です。「大地を覆う木」の象形と「土地の神を祭るために柱状に固めた土の象形」(「土」の意味)から「の」を意味する「埜」という漢字が成り立ちました。

「埜」は「野」の旧字です。

土地の神を祭る社(やしろ)は、集落から遠く離れた所にありました。そのため「野/埜」にも「辺鄙(へんぴ)なところ」という意味ができ、さらに「非文化的」という意味も加わって「粗野」とか「野蛮」という言葉ができたのです。

ちなみに、「会意文字」とは、象形文字や指事文字などを二つ以上組み合わせ、もともとの漢字とは別の意味を表す文字となった漢字です。

「形声文字」とは、発音を表す漢字と、意味を表す漢字が組み合わさって出来た漢字です。漢字の80%以上が形声文字です。

2.孔子は「野合」で生まれた子だった!?

儒教の祖として有名な孔子(B.C.552年一説に551年~B.C.479年)は「野合(やごう)」(*)で生まれた子だったということをご存知でしょうか?

(*)「野合」とは、男女が媒酌の人を介さないで同棲すること。正式に結婚の手続を経ないで男女が通ずること。ひそかに結び交わること。「野偶」とも言います。

孔子は、魯国昌平郷辺境の鄹邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で鄹邑大夫の次男として生まれました。

は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)または孔紇(こうこつ)、身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされていますが、「論語」の中には詳細な記述がありません。

これが事実だとすれば、今なら孔子の父は「淫行」で非難されていることでしょう。

父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていました。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わっています

また「史記」には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されています。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようです。

「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記しています。中国史学者の貝塚茂樹(湯川秀樹の兄)は、「孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であった」としたうえで、後代の儒学者が「偉人が処女懐胎で生まれる神話」に基づいて脚色しようとするのに対して、「合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できる」としています。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っています。

確かに後代の儒学者の処女懐胎神話は、イエス・キリスト生誕神話のパクリそのものですね。

それにしても、社会的なマナーの整備を説いた孔子自身が、礼法を無視した結婚で生まれたとは皮肉な話です。彼の父親は「反面教師」(*)だったのかもしれません。また孔子の生きた時代の中国が汚職や賄賂の横行など、道徳的に大変乱れていたことの証拠でもあります。

(*)「反面教師」とは、「悪い見本として学ぶべき人。その人自身の言動によって、こうなってはならないと悟らせてくれる人」のことです。「面教師」というのは間違いです。

この言葉は古くからあると思っている人も多いと思いますが、1957年に毛沢東が演説で使ったのが最初の比較的新しい言葉です。

毛沢東が具体的に使った「反面教師」の意味とは「組織の中に間違った者がいた場合に彼を排除するのではなく、権限を無くした状態で組織内に留めておくことで、他の組織員に彼の見苦しさを見せつけて、同じような者が出てこないように利用する」ことです。 つまり、悪い見本として晒し者にすることで、他の人の教化に利用しようとしていたと言われています。

ただし毛沢東の場合は、「文化大革命」の時の「紅衛兵」を見てもわかるように、多分に政治的に自分に敵対する者を粛清するために利用したのではないかと私は思います。

国民の多くが道徳的な日本社会では、「忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕」など必要以上に厳格な儒教道徳を押し付ける必要はなく、むしろ現代の中国の人々(習近平主席を筆頭とする中国共産党の指導者たち、および日本に観光にやって来る「インバウンド」と呼ばれる中国人観光客)にこそ儒教道徳が必要なのではないかと私は思います。

3.「野球」は正岡子規の造語だった!?

「ベースボール(baseball)」を翻訳して「野球」という造語をあてたのは、正岡子規(1867年~1902年)だという話は有名です。

ただしこれについては諸説あり、最初に「野球」と訳したのは中馬庚(ちゅうまんかなえ/ちゅうまかのえ)(1870年~1932年)(下の画像)だという説もあります。

真相は次の通りです。

中馬庚

1887年3月に三州義塾を卒業し、翌年9月に第一高等中学校に進学した中馬庚は、選手として活躍していた1893年、第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」執筆を依頼されましたが、その際にベースボールを何と訳すかという問題にぶつかりました。当時は、この球技は一般的にベースボールと呼ばれており、訳語を使う必要がある場合には「底球」などとしていました。しかし、これでは「庭球」と紛らわしく、新しい訳語を考える必要があったのです。

執筆も完成に近付いた1894年の秋、「Ball in the field」という言葉を元に「野球と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明しました。この間に第一高等中学校は学制改革で第一高等学校となり1895年2月に「一高野球部史」として発行されました。その後、中馬は東京帝国大学(現・東京大学)に進学しています。

実は中馬庚も正岡子規も日本に野球が導入された最初のころの熱心な選手で、子規は1889年に喀血してやめるまで野球を続けていました。ポジションは捕手でした。

正岡子規は自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともあります。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳した4年前の1890年のことで、読み方こそ異なりますが「野球」という表記を最初に発案したのは子規です。ただしこれは「ベースボール」に対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものです。

正岡子規は、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示していますが、ベースボールに対する訳語は提示されていません。また「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえます。

余談ですが、中馬庚と正岡子規の二人はともに「野球殿堂入り」(中馬庚は1970年に「特別表彰者」として、正岡子規は2002年に「新世紀特別表彰者」として)を果たしています。



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