大河ドラマ「どうする家康」に登場する井伊直政とは?出世街道まっしぐらのイケメン武将。

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井伊直政

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、板垣李光人さん(冒頭の画像)が演じることになった井伊直政がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、井伊直政についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.井伊直政とは

井伊直政

(1)生い立ちと幼少期

井伊直政(いいなおまさ)(1561年~1602)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第20代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

永禄4(1561)年に、今川氏に従う井伊直親(いいなおちか)の嫡男として生まれました。井伊家は代々国人領主の家系で、遠江国(とおとうみのくに・今の静岡県西部)に勢力を持った一族でした。

しかし、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄弟)が、今川義元に仕えて「桶狭間の戦い」で戦死。混乱の状況の中、父の直親は謀反の疑いをかけられて、殺害されます。そのため、わずか2歳だった直政は、身を守るために出家するなどして、各地を放浪する日々を送るようになります。

(2)徳川家康の小姓となる

そんな不遇の直政に、転機がやってきます。天正3(1575)年、浜松城下で徳川家康に見いだされて、小姓として仕えることとなったのです。

当時15歳の直政は、人目を引く美形だったそうで、家康はそこに惹かれたのかもしれません。また養母として面倒を見ていた直虎(なおとら)が、井伊家を復活させるために、周到に仕組んだからとも伝えられています。

(3)赤備え軍団の長に大抜擢される

家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いでは、果敢に戦いに挑み、成果をあげていきます。そして異例の出世を遂げて、後に「徳川四天王」と呼ばれる、家康の重臣のポジションへと上っていきます。

天正10(1582)年、「本能寺の変」が勃発すると、織田信長に招かれて堺にいた家康一行は、伊賀国(いがのくに・現在の三重県西部)の山中を踏破して、三河国(みかわのくに・現在の愛知県東部)へ逃れます。この「伊賀越え」で、直政は命がけで家康を守り、後に褒美として、孔雀の羽で織った美しい陣羽織を与えられます。

天正11(1583)年、松平康親の娘・花(唐梅院)が徳川家康の養女となって井伊直政に嫁ぎました。

武田家滅亡後、武田旧領を手中におさめた家康は、旧武田軍を配下に置き、直政を侍大将に抜擢。天正12(1584)年、「小牧・長久手の戦い」で直政が率いた軍は、鉄砲隊を駆使して数々の勝利をあげます。

武田軍を踏襲して甲冑や旗などを赤色で統一した部隊は、「井伊の赤備え」として注目されました。また巨大な角のような天衝脇立(てんつきわきだて)の兜をかぶり、全身赤のいでたちで先頭を切る直政は、「井伊の赤鬼」と諸大名から恐れられるようになります。

(4)豊臣秀吉からも手腕を評価される

家康のもとで武将としての手腕を発揮していた直政は、豊臣秀吉からも一目置かれる存在でした。天正14(1586)年に家康が秀吉に臣従すると、秀吉から従五位下(じゅごいげ)に叙位されたほか、豊臣姓も賜る栄誉にあずかります。2年後の聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)では、徳川重臣の中で、直政だけが身分が一つ上の位に任官されます。

天正18(1590)年、豊臣秀吉小田原攻めでは唯一夜襲をかけ小田原城内にまで攻め込んだ武将としても知られます。

(5)「関ヶ原の戦い」での活躍

直政は戦で勇敢に戦うだけでなく、折衝能力にも優れていたようです。秀吉の死後に起こった豊臣家の内部争いでは、多くの武将を家康の味方に引き入れるなど、交渉を行いました。

なかでも黒田官兵衛・長政親子と親交を結んだ功績は、大きなものでした。黒田親子は有力な武将たちとつながりが深かったので、これにより後の「関ヶ原の戦い」は、家康にとって有利に働く要因となります。

慶長5(1600)年、家康と石田三成の対決となった「関ヶ原の戦い」が勃発すると、直政は本多忠勝と共に、軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在として活躍しました。そしてこの戦いで、全国の名だたる武将を東軍に取り込むことに成功します。

ところが不運なことに、大けがを負ってしまいます。戦いの前から体調は万全ではなかったとも言われ、向かうところ敵無しの「井伊の赤鬼」にも、暗い影が忍び寄ってきていました。

(6)激務の戦後処理

直政は関ヶ原の戦いでの働きにより、石田三成の旧領である近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を拝領。京都に近い位置だったのは、西国の抑えや朝廷の守護の目的もあったようで、それだけ家康からの信頼が厚かったことがうかがえます。

直政は、定住の場所がなくさすらう身だった幼少の頃から考えると、頂点に上りつめたと感じた瞬間だったのではないでしょうか?

築城に取りかかりますが、直政には関ヶ原の戦いの後始末が残っていました。休む暇も無く、交渉や次なる軍事行動の司令塔として働く日々。西軍の総大将・毛利輝元との交渉では、所領を認められた輝元から感謝されたようです。また真田昌幸・信繁親子の助命にも尽力しました。

(7)死去

このようにして直政は休まずに働き続けましたが、慶長7(1602)年になると体調が悪化し、ついに亡くなってしまいます。傷を養生する余裕がなかったことが原因のようですが、あきらかに激務による過労も影響していたのでしょう。完成を夢見ていた彦根城を見ることなく、42年の激動の人生を終えました。有能であったが故の悲劇とも感じられます。

2.井伊直政のイケメンエピソード

勇敢な武将の直政は直情型で、部下に厳しかったという説がありますが、イケメンだけあって、周囲の女性からは熱い視線を送られていました。また、女性に対しては、中々紳士的だったようで、数々のエピソードがあります。

実は男色の気がなかった家康も、直政と出会って目覚めてしまったとか・・・

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