<ムネモシュネ ロセッティ画>
『ギリシャ神話』はもともと口承文学でしたが、紀元前8世紀に詩人のヘーシオドスが文字にして記録しました。古代ギリシャの哲学、思想、宗教、世界観など多方面に影響を与え、ギリシャでは小学校で教えられる基礎教養として親しまれています。
絵画ではしばしばモチーフとして扱われ、多くの画家が名作を残しています。文学作品や映画などにも引用され、ゲーム作品でも題材になっていることがあります。たとえば、ディズニー映画の『ヘラクレス』はギリシャ神話をモデルにしたお話です。
『ギリシャ神話』(およびその影響を受けた『ローマ神話』)は、現在まで欧米人にとって「自分たちの文化の土台となったかけがえのない財産」と考えられて、大切にされ愛好され続けてきました。
欧米の文化や欧米人の物の考え方を理解するためには、欧米の文化の血肉となって今も生き続けている『ギリシャ神話』の知識が不可欠です。
「日本神話」は、天皇の権力や天皇制を正当化するための「王権神授説」のような神話なので、比較的単純ですが、『ギリシャ神話』は、多くの神々やそれらの神の子である英雄たちが登場し、しかもそれらの神々の系譜や相互関係も複雑でわかりにくいものです。
前に「ギリシャ神話・ローマ神話が西洋文明に及ぼした大きな影響」という記事や、「オリュンポス12神」およびその他の「ギリシャ神話の女神」「ギリシャ神話の男神」を紹介する記事を書きましたので、今回はシリーズで『ギリシャ神話』の内容について、絵画や彫刻作品とともに具体的にご紹介したいと思います。
第26回は「記憶の女神ムネーモシュネーと娘のムーサたち」です。
1.ムネーモシュネーとは
ムネーモシュネー(ムネモシュネ)は、ギリシア神話に登場する「記憶の女神」です。
ウーラノスとガイアの娘で、ティーターン族の一人であり、オーケアノス、コイオス、クレイオス、ヒュペリーオーン、イーアペトス、クロノス、テイアー、レアー、テミス、ポイベー、テーテュースと兄弟です。
またゼウスとの間に9人のムーサ(ミューズ)たち、すなわちカリオペー・クレイオー・エウテルペー・タレイア・メルポメネー・テルプシコラー・エラトー・ポリュムニアー・ウーラニアーを生みました。
ちなみにムネーモシュネーは、ゼウスの伯母にあたります。
ムネーモシュネーは名前をつけることを始めたとされ、また学問の道を究めるときや詩人が詩作しようとするときには、記憶力を高めたり霊感を得るためにムネーモシュネーとムーサたちに祈願したということです。
古代ギリシャでは、人間にとって大切と思われた知識は、もとは全て詩の中に盛り込まれ、詩人たちによって記憶されました。さまざまな学問は、詩から次第に分化して独立していったものです。
学問や文芸がいろいろな部門に分かれるにつれて、ムネーモシュネーの娘である女神ムーサたちが学芸全般をそれぞれ9人で分担し合い、司るのだと信じられるようになりました。
ムネーモシュネーは、小惑星帯の第57小惑星「ムネモシネ」の「エポニム」でもあります。
日本のSFアニメ作品『Mnemosyne-ムネモシュネの娘たち-』(ムネモシュネ -ムネモシュネのむすめたち-)や、大野木寛による小説版『ムネモシュネの娘たち2008』にもこの女神の名前が使用されています。
2.ムネーモシュネーにまつわる神話
「記憶の女神」ムネーモシュネーと、「忘却の女神」レーテーはしばしば対の存在として描かれます。一部の神秘主義的な宗教においては、ムネーモシュネーと対になってレーテー(*)の名前が挙げられています。
(*)「レーテー」は冥府を流れる忘却の河であり、その水を飲んだものは一切の記憶を忘れるということです。レーテーは水の精霊であるナーイアスの一人で、古代ギリシャ語で《忘却》を意味します。古代ギリシャ人たちは、冥府ハーデースには5つの河が流れていると考えました。レーテーは、そのうちの1つの河です。
この河の水を飲むと、一切の記憶を忘却するといいます。この河川は楽土エリューシオンに沿って流れていて、死者たちはこの河の水を飲み、生前の記憶を失うとされました。また、輪廻転生をする際、この河の水を飲んでから転生するため、前世の記憶を失うのだということです。
ちなみに、冥府を流れるほかの4つの河川はアキレウスを不死身にした魔法の水が流れる「ステュクス河」、渡し守カローンがいる「アケローン河」、冥府の最下層を流れる嘆きの河「コーキュートス河」、燃え盛る炎の河「プレゲトーン河」があります。
一方、「ムネーモシュネー」の河の水を飲むと全てを記憶できるようになり、全知になると信じられていました。
ボイオーティア地方にあるトロポーニオスの神託所の傍らには、この2つの女神と同名の泉があり、神託を受ける者は、「忘却」と「記憶」の2つの泉の水を飲む必要がありました。
3.ムネーモシュネーの9人の娘ムーサ(ミューズ)たちにまつわる神話
ヘーシオドスの『神統記』によると、ムネーモシュネーはエレウテールの丘の主で、オリュンポス山麓のピーエリアにおいてゼウスと9日間にわたって愛の関係を持ち、1年後に、人々から苦しみを忘れさせる存在として9人の「ムーサ(ミューズ)」(*)たちを生んだということです。
(*)「ムーサ(ミューズ)」とは、ギリシア・ローマ神話に登場する学問と芸術を司る女神集団です。英語ではミューズMuseといい、music(音楽)やmuseum(博物館・美術館)の語源です。
その人数についてはさまざまの伝承がありますが、一般にはヘシオドスの《神統記》に従い、ゼウスとムネーモシュネー(記憶の女神)を両親としてオリュンポス山麓のピーエリアPieriaで生まれた9人の女神とされます。彼女たちはアポローンとサテュロスの笛の名手マルシュアスMarsyasの音楽競技の審判役をつとめたほか、彼女たちに技競べを挑んだトラキア地方の音楽家タミュリスThamyrisを負かして、その視力と音楽の技を奪ったなどと伝えられますが、固有の神話は多くありません。
天上における女神ムーサたちの主な務めは、「音楽の神」アポローンが奏でる竪琴に合わせて優美に踊りながら歌い、ゼウスの館で開かれる宴会に集まる神々たちの心を楽しませることでした。
カリオペーはムーサの筆頭女神で、神話の中では一番、出番が多くなっています。音楽の神アポローンとの間に人間で最初に詩人となった「音楽英雄」(音楽の天才)オルペウスをもうけています。メルポメネーは河神アケローオスとの間にセイレーンを生んだとされます。
ムーサ崇拝の一大宗教センターとなっていたのは2か所で、一つはトラーキアのピーエリア、もうひとつはボイオーティアのヘリコーン山です。
ヘーシオドス『テオゴニアー(神統記)』ではヘリコーン山のムーサたちを讃えるところから叙事詩は始まっています。一方、『仕事と日々』ではピーエリアのムーサたちを讃えるところから叙事詩は始められています。
ムーサを崇拝する団体が学校にあったことから、ムーサの神殿であるムーセイオンは教育機関、研究機関の名前となりました。これが現在のmuseum(ミュージアム)《美術館、博物館》の語源になっています。また、music(ミュージック)《音楽》もムーサに起源を持っています。
<パルナッソス山にあるアポロンとムーサたち サミュエル・ウッドフォード画(ラファエロの模写)>
ムーサ(ミューズ)は9つの芸術の女神で、至高の才能や能力のシンボルであり、人間にそうした才能を吹き込んでいました。
<ヘリコン山のアポロとムーサたち(パルナッソス) クロード・ロラン画>
不死の美しい処女ムーサ(ミューズ)たちは、よく輪になって踊る姿で描かれています。
ミューズは、ミュージアムやミュージックの語源にもなっています。
現在では、ミューズと言えば、アーティストにインスピレーションを吹き込む存在です。
<ポロンと9人のムーサ ギュルターヴ・モローア画>
ゼウスと記憶の女神ムネーモシュー(「メモリー」の語源)の間に生まれた9人の姉妹がムーサ(ミューズ)でした。
娘たちは、常に芸術の神アポロンと行動を共にしました。
ヘリコン山やパルナッソス山に住み、人間に会うごとに才能を授けました。
<パルナッソス山 ラファエロ・サンティ画>
上の絵では、アポローンと9人のムーサたち、そしてその両脇には、ムーサたちにインスピレーションを授けられ、誉れ高い作品を創作した優れた芸術家たちが描かれています。
ペトラルカ、サッフォー、ダンテ、ホメロス、ホラティウス、オウィディウスといった18人のそうそうたる詩人、著述家たちが勢ぞろいしています。
月桂樹はこの場面の背景に繁っているだけでなく、冠としてアポロンと詩人たちの頭に載っています。
彼らは、栄光の証としてアポローンから月桂冠を授けられています。