源頼朝は北条氏を後ろ盾に坂東武士を束ね、義経・範頼を利用し平氏追討した謀将

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伝源頼朝像

源頼朝と言えば、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた征夷大将軍で源義経の兄ということは誰でも知っていますが、その人物像や生涯についてはあまり詳しく知らない方が多いのではないでしょうか?

ところで今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で大泉洋が優柔不断で臆病な頼朝をコミカルに演じているので、興味を持たれた方も多いと思います。

そこで今回は、源頼朝とはどのような人物だったのかを、わかりやすくご紹介したいと思います。

鎌倉将軍三代の系図

1.源頼朝とは

源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・政治家で、鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。

(1)生い立ちと幼少期

1147年、彼は尾張国(現・愛知県西部)に、源義朝(みなもとのよしとも)(1123年~1160年)の三男として生まれます。熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘である由良御前(ゆらごぜん)で、義朝の正室にあたります。

兄二人は側室の子だったため、頼朝は三男でありながら嫡男として育てられ、12歳のころに朝廷へ出仕します。

義朝の跡取りとして将来を大いに期待されていた頼朝でした。

(2)平治の乱

しかし1159年のこと、13歳にして早くもその地位は陰りを見せることとなります。

このころ、朝廷内で勢力を増し始めた平氏一門源氏一門が対立するようになります。

平治の乱」(1160年)で義朝が賊軍として討たれ、頼朝も朝廷を追われる立場となってしまうのです。

翌年、近江国(現・滋賀県)で捕らえられた頼朝は、処刑を免れない危機にさらされますが、池禅尼(いけのぜんに)(1104年?~1164年?)という女性の嘆願によって助命されます。これが彼の最初の命拾いです。

池禅尼は、平氏の棟梁・平清盛(たいらのきよもり)(1118年~1181年)の継母にあたる人物です。

助命を願い出たのは、頼朝が早逝した息子にそっくりだったためとされるほか、熱田神宮大宮司家などの願い出があったという説もあります。

(3)伊豆の流人となる

ともあれ、助命された頼朝は以降20年、伊豆での配流生活を送ることとなるのです。

伊豆へ配流となった頼朝が過ごしたのは、北条時政が治めていた蛭ヶ小島(ひるがこじま)という土地でした。

時政のほか、山木兼隆(伊豆目代)や伊藤祐親(伊豆半島東岸の豪族)などの人物が、頼朝を監視する役目を担っていました。

頼朝は流人として暮らす中、仏教に帰依し、伊豆山権現、箱根権現などに足しげく通い、父義朝をはじめ、源氏の祖先を熱心に弔いました。

また、現地では庶民と接する機会が多く、そのことが頼朝に武家政権の構想を抱かせるにいたったともされています。

平安期までの朝廷政治は、貴族のことを第一に考えた政治でした。

武士の持つ所領は所有権が保証されておらず、いつ他勢力に攻められ、奪われてもおかしくない状態にありました。

武家政権を樹立し、将軍という立場から御家人の所領を安堵する」という頼朝のこの構想は、天皇や公家という「伝統や権威に頼るだけの名目的な権力者」ではなく、武士という「武力を持った真の実力者」による最初の政権と言えるでしょう。

(4)挙兵(源平合戦の始まり)

平安末期には、武士として初めて実権を握った平清盛が政治をほしいままにしていました。清盛は「平氏でなければ人ではない」と言うほど驕りたかぶり、貴族や他の武士などの反感を買っていました。こうした中で、東国から平氏を打つべく挙兵したのが、源頼朝だったのです。

20年の配流生活を経た1180年のこと、頼朝に思ってもみない転機が訪れます。

朝廷内で権力をほしいままにしていた平氏一門は、その状況に不満を抱いた後白河法皇と対立します。

そして、法皇を幽閉し、関白をはじめとする近臣39人を解任するという暴挙に出たのです。

この一件に憤慨した法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)(1151年~1180年)が、全国の源氏へ向け、平氏討伐の令旨を下すこととなりました。

この一ヶ月後に以仁王は敗れ、平氏一門は全国の反平氏勢力の討伐を掲げます。

いよいよ自身のところにも、平氏の軍勢が攻め込んでくるという局面に立たされ、頼朝は挙兵を決意したのです。

頼朝にとって、単に「平氏打倒」を目指すだけでは、「単なる武家同士の私闘」に過ぎず、「大義名分」がありません。「令旨」や「宣旨」「院宣」などの「錦の御旗」は、「官軍」の印であり、「賊軍の討伐」という名目が成り立つのです。「明治維新」の際の薩摩・長州軍も同様でした。

北条時政・義時らとともに挙兵した頼朝は、伊豆目代・山木兼隆を下したのち、陸路で武蔵国(現・埼玉県)を目指そうとしました。

しかし、その道半ばに立ちふさがったのが、大庭景親、梶原景時をはじめとする3,000人の軍勢でした。

頼朝の軍はこの時点で300人ほどしかおらず、大敗を喫することとなります。これが「石橋山の戦い(1180年)」です。ここで梶原景時が「故意に頼朝を見逃した」ために、命拾いします。

山中に身を隠し難を逃れた頼朝は、平氏勢が戦線を張っている陸路を諦め、海路で安房国(あわのくに)(現・千葉県南部)を目指すことになりました。

ここから房総半島を拠点に、頼朝はなんと兵力を100倍にまで伸ばしてみせるのです。

(5)坂東平定

安房国へ渡った頼朝が頼ったのは、在地の豪族である千葉常胤上総広常です。このうち、上総広常は2万の兵力をもつ有力武将で、頼朝軍の増強に多大な貢献をしました。

面白いのが、上総広常が頼朝が本当に主君としてふさわしいのか、品定めをしたという話です。

頼朝から協力要請を受けた上総広常は予定よりも遅れて頼朝の元へ参陣します。

上総はこのとき、「頼朝が並の武将であれば、2万の兵数に喜び、遅れたことを叱責されることはない」と考えていたといいますが、頼朝は兵数のことなど触れもせず、上総が遅れたことに激怒します。これは実際は「はったり」で冷や汗ものでしたが、三度目の命拾いです。

しかしこの一件で。上総は頼朝を主君として認め、忠誠を誓うようになったのです。

こうして頼朝は、3万の兵を率いて鎌倉入りを果たしました。

以後、鎌倉には源氏に加勢する者が続々と集まっていきます。

この状況を危惧した平清盛は頼朝討伐の軍勢を派遣しますが、「時すでに遅し」です。

勢いのある方に付き、勝ち馬に乗ろうとする「寄せ集めの烏合の衆」ではありますが、頼朝の兵力はすでに20万ほどになっており、臆した平氏軍は、ほとんど戦わずに帰参することになりました。これが「富士川の戦い(1180年)」です。

続いて頼朝は、常陸国(現・茨城県)の佐竹氏や、叔父の志田義広らを破り、関東の対抗勢力をすべて排することに成功しています。

(6)源義仲(木曽義仲)との戦い

平氏討伐を掲げた源氏の勢力は大きく分けて、関東を抑えた頼朝北陸一円を抑えた源義仲がいました。

このうち、先に平氏討伐に繰り出したのは義仲の方です。

1183年のこと、義仲の勢力拡大を懸念した平氏勢は、10万の兵を率いて北陸へと攻め寄せます。

しかし義仲は奇襲作戦を用い、半数の5万の兵で平氏勢を下しました。

「朝日将軍」と呼ばれた義仲は、勢いに乗って平氏勢を京都から追い出し、入京を果たします。

ただ、ここからの義仲の動向が問題でした。京都へ入った義仲軍は、我が物顔で食料を食べあさり、庶民たちを相当に困らせていたのです。

手を焼いた後白河法皇は、義仲を京都から遠ざける目的も含め、平氏の追討を命じるものの、成果は上がりませんでした。

そうこうするうちに平氏勢は見る見る勢力を回復させ、再度入京すべく、播磨国(現・兵庫県)に陣を敷くまでの状況になっていました。

(7)平氏追討

この機に際し、後白河法皇頼朝を頼り、義仲と平氏の討伐を要請するのです。

しかし、いくら法皇からの命とあっても、頼朝自身が鎌倉を離れるわけにはいきません。

なぜかといえば、少しでも隙を見せれば、東北地方を牛耳る奥州藤原氏に背後を突かれるためでした。

奥州藤原氏の当主・藤原秀衡は1181年、平清盛によって陸奥守の官職に任じられており、頼朝勢力の警戒網の役目を担うようになっていたのです。

そのため、頼朝は自身に代わって軍を率いる代官を派遣します。

それが弟の範頼・義経でした。

弟たちに代官を任せたのは、ほかの御家人に任せると、兵が従わないことを懸念してのものです。

「我々は源氏を主君に掲げているのに、どうして御家人風情に従わねばならないんだ!」

という風潮があったのです。

特に義経は戦術の天才として知られますが、大将として選出された理由は、単に頼朝の弟だからです。

案外、「やらせてみたら才能があった」というだけの話だったのかもしれません。

二人の弟は1184~85年にかけて義仲や平氏勢を下し、長く続いた勢力争いを終結させることになります。

その間、頼朝は大江広元や三善康信など、朝廷に務めていた優秀な事務官を迎え入れ、幕府の基盤となる組織を構築していきました。

(8)源義経を追放

1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、源範頼は九州に残って戦後処理を行うことになります。

一方、義経は平宗盛らを連行する役を任されますが、なんと鎌倉を目前にして、頼朝から鎌倉入りを禁じられてしまいます。

義経は在京中、頼朝の許可なく独断で朝廷から官位を賜ったほか、戦場での独断専行が目立ち、梶原景時ら配下の兵から苦情が寄せられていたのです。

・捕らえた敵兵の処罰を勝手に決める

・作戦に関しても部下の進言を聞き入れず、口を挟むと逆ギレ

・自身の戦功を鼻にかけた振る舞い

など、配下の兵は辟易していたと言います。

範頼が戦況をマメに報告していたのに対し、義経は頼朝への報告もほとんどしていなかったという話です。

これらの行いを咎められ、鎌倉入りできなくなった義経は、今度は頼朝に逆ギレします。

「関東に恨みがある者は義経に従え!」と、声を上げ、頼朝への敵意を剥き出しにするようになります。

このあと義経は頼朝によって伊予守に任じられ、一度は和解の兆しが見えたようにも思えました。

しかし、叔父の源行家の討伐を命じられた際に出陣を渋ったことで完全に謀反人となり、幕府から追われる立場となってしまうのです。

以降、義経は九州方面へ逃亡し行方不明となりますが、意外にもこの事件が鎌倉幕府の隆盛に大きく関わっています。

(9)天下の草創

実のところ頼朝は、義経が行方不明になったこの状況を利用し、大きな改革を成し遂げています。

それは、全国に幕府から派遣した守護・地頭を置くこと。

これは朝廷が所有する領地の統治を幕府に任せることを表しており、幕府に政権を委ねることにほかなりません。

この重大事を朝廷に認めさせるには、何かしら差し迫った理由が必要でした。

そこで、頼朝は行方不明になった義経を利用したのです。

「謀反人となった義経は、全国のどこに潜んでいるかわからない。もし発見できたとして、戦に慣れていない朝廷の役人では、義経を捕らえることは至難の技。それなら各地に守護・地頭を置いて、幕府が追討の責任を負います。」と、朝廷に迫ったのです。

また、義経が行方不明になる少し前のこと、朝廷は義経に促され、頼朝討伐の宣旨を下していました。

これは、義経があまりにしつこく求めたからで、朝廷としてはその場しのぎのつもりで下したものです。

しかし、頼朝にとってはこれも守護・地頭の設置を認めさせる格好の材料となりました。

頼朝は自身に討伐の宣旨が下されたことに激怒して朝廷を責め立て、幕府の要求を余計に断りにくくすることに成功しました。

こうして頼朝は政権を朝廷から幕府へ手繰り寄せるという前代未聞の偉業を、いとも簡単に成し遂げてみせたのです。

(10)奥州合戦

1188年、行方不明になっていた義経は、奥州平泉へ逃げ込み、奥州藤原氏に匿われていました。

実はこのことも、鎌倉幕府の勢力を広げるための後押しとなりました。

前述の通り、奥州藤原氏は頼朝に対する警戒網の役割を果たしており、朝廷としては、幕府を抑えておくための最期の砦でした。

頼朝にとっては邪魔でしかありませんが、討伐しようにも簡単には宣旨が取り付けられない状況にあったのです。

そんな奥州藤原氏に、今や朝敵とされている義経が逃げ込んだことが、頼朝にとっては願ってもみないチャンスとなりました。

頼朝は奥州藤原氏が義経を匿ったことを理由に、討伐の宣旨を取り付けようとするのです。

しかしさすがにこのときは宣旨が下されず、結局は「御家人は天皇の部下ではなく、将軍の部下だから、宣旨は関係ない」という半ば無理矢理な理由をつけて挙兵が行われることになりました。

あっけにとられた後白河法皇も、奥州藤原氏が滅ぼされた事実を受け、幕府の挙兵を追認せざるを得ませんでした。

こうして、幕府の覇権を阻むものは何もなくなりました。

(11)征夷大将軍に任じられる

以降、1192年に頼朝が征夷大将軍に任じられたことで、史上初の武家政権がついに認められるに至ります。

ちなみに、義経は奥州合戦の少し前、幕府から圧力をかけられた藤原泰衡によって自刃させられたことになっていますが、その真偽はわかっていません。

頼朝は一介の流人時代に、自分に対する監視役であった北条時政の娘を妻にすることで、北条氏をうまく取り込んで後ろ盾とし、「以仁王の令旨」を大義名分にして源氏の再興を図る「源平合戦」の開始に成功しました。

また後白河法皇から「源義仲と平氏討伐」の要請を受けて、弟の義経や範頼を代官として「源義仲討伐」と「平氏追討」に当たらせて、源義仲を破るとともに平氏を滅亡に追いやり、「源氏再興」の宿願を果たしました。

頼朝は弟二人を巧妙に利用した後、ともに死に追いやっています。義経は謀反の疑いをかけられた後、九州方面へ逃亡し、その後、奥州藤原氏を頼りました。

範頼も、謀反の疑いをかけられ、伊豆国に流罪となっています。建久4年(1193年)5月28日、「曾我兄弟の仇討ち」が起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べました。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされます。

一方で頼朝は、大江広元や三善康信など、朝廷に務めていた優秀な事務官を迎え入れ、幕府の基盤となる組織を構築していました。

このように見てくると、頼朝は「勇将」ではなく、「謀将」であったと言えるでしょう。

(12)朝廷対策と晩年

頼朝の晩年に関しては、後鳥羽天皇との姻戚関係を結ぶべく上洛し、朝廷工作を行ったことのほか、あまり記録が残っていません

そのなかでわかっているのが、1198年の暮れに、妻・北条政子の妹を弔って建てられた相模川の橋供養に出かけ、その帰路で落馬したということです。

以降体調を崩し、翌年の1月13日に亡くなったとされています。しかし、死因については謎に包まれており、暗殺説もあります。

これについては、「源頼朝の死因は落馬か暗殺か糖尿病か亡霊か?頼朝の名言もあわせて紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

2.室町幕府・江戸幕府・明治維新につながる「武力を持った真の実力者」による政権

明治維新も、私は「薩摩藩と長州藩による軍事クーデター」だと思っており、天皇はあくまでも薩摩藩と長州藩にとって操縦しやすく都合のよい「権威付けのための傀儡」でした。

その意味で、岩倉具視も深く関わったとされる「真の明治天皇は即位直後に暗殺され長州出身の大室寅之祐にすり替わった」という説は、真実だと私は思います。

余談ですが、平安時代中期の「平将門の乱」によって、朝廷は「武士の力」を再認識せざるを得なくなりした。

従来天皇や貴族たちは、「警備員や従順な番犬のような存在」として武士を雇い入れ、身辺警護に当たらせていましたが、やはり武力を持つ者は強く、「飼い犬に手を噛まれる」のことわざとはちょっとニュアンスが違いますが、やがて武士に政治権力まで奪われてしまうことになります。

武士の力を見くびると大きな反乱につながり、またその反乱を収拾することができるのも武士の力であることがわかったのです。

また、この「平将門の乱」で勝利した平貞盛の子孫に平清盛(たいらのきよもり)が生まれ、藤原秀郷は関東中央部の武家諸氏の祖となり、その子孫から「奥州藤原氏」も誕生したのです。

鎌倉幕府・室町幕府から江戸幕府に至る武家政権も然(しか)りですし、明治維新も、薩摩藩と長州藩を中心とした軍事クーデターでしたが、第二次世界大戦後にアフリカ・アジア・中近東など世界各地でクーデターによる軍事独裁政権が誕生したのも、強大な軍事力が政治を大きく動かすことを証明しています。

現代も米中ロの超大国と、核保有国家の軍事力による「パワーポリティクス」が国際政治に大きな影響を及ぼしており、それらの国々の「パワーバランス」で成り立っています。

しかし2022年2月のロシアプーチン大統領によるウクライナ侵略は、核保有国家の軍事力を誇示し、核兵器の使用も示唆して威嚇する許しがたい暴挙です。

日米欧は結束してロシアを抑え込むべきだと私は思いますが、「新東西冷戦」は不可避の情勢です。

最悪の場合、「源平合戦」とは比較にならない人類滅亡の危険をはらむ「核兵器による熱戦(熱核戦争)」となるかもしれません。

3.頼朝の肖像画は別人?

ところで、冒頭に掲げた肖像画は昔から教科書にも掲載されていて有名ですね。これは京都の神護寺が所蔵する「源頼朝像」ですが、どうやら「別人」のようで足利直義(足利尊氏の弟)説もあり、現在の教科書には山梨県の甲斐善光寺が所蔵する「源頼朝坐像」(下の画像)が掲載されています。

源頼朝坐像

4.鎌倉幕府が開かれたのは1192年でない?

また、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1192年で、「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方が多いと思いますが、複数の現行教科書では欄外で1183年や1185年などの説を取り上げています。1180年とする説もあります。

このような歴史の教科書の変化は、「大化の改新」でもありましたね。我々団塊世代は、645年で「蒸し米供えて大化の改新」という語呂合わせで覚えましたが、現在は「改新の詔」が発布された646年とされています。ちなみに645年は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が大和政権の有力豪族であった蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅亡させた事件「乙巳(いっし)の変」が起こった年です。



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