堀部安兵衛とは?「高田馬場の決闘」の助太刀として名を馳せた剣の達人

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堀部安兵衛

1.「高田馬場の決闘」とは

高田馬場と言えば、現在は早稲田大学や学習院大学などの大学・専門学校・予備校が多く集まる学生街ですが、江戸時代には三代将軍徳川家光によって旗本たちの馬術の訓練や流鏑馬(やぶさめ)などのための「馬場」が作られた所です。

「高田馬場の決闘」(1694年)とは、次のような経緯です。

西条藩の藩士の同僚である「菅野六郎左衛門」と「村上庄左衛門」が決闘の4日前に些細なことから言い争いになり、他の藩士に止められるという出来事がありました。二人は仲直りのために盃を交わしたのですが、酒が入って気分が高ぶったのか、その席でまたしても口論となり、高田馬場で決闘して決着を付けようということになりました。

こういう決闘の時は、「仇討ち」の場合もそうですが、知り合いや兄弟に「助太刀」を頼むのが普通でした。村上は兄弟と家来を合わせて6~7人の助太刀を付けましたが、菅野は2人しか助太刀が集まりませんでした。そこで菅野は、決闘に出発する際、同じ道場仲間で「叔父甥」の義を結んでいた「中山安兵衛(後の堀部安兵衛)に後事を託す」旨妻を介して伝えます。それを聞いた安兵衛は急いで高田馬場に駆けつけ、助太刀として参戦することになります。

村上と菅野たちが助太刀を交えてすさまじい斬り合いを演じているところへ、もう一人の助太刀の安兵衛が駆けつけて村上たちを斬り伏せたという話です。菅野は村上のとどめを刺しましたがこの決闘で深手を負い、傷の痛みに耐えかねて自害しています。

当時の瓦版では、「中山安兵衛は18人を斬り伏せた」と喧伝されたそうです。これは現代のスポーツ新聞や週刊誌と同様オーバーな数字で、安兵衛自身は3人を斬り伏せたという認識だったようです。

2.「堀部安兵衛」とは

「堀部安兵衛」という通称で知られる「堀部武庸(ほりべたけつね)」(1670年~1703年)は、越後国新発田藩士・中山弥次右衛門の家に生まれますが、父は後に浪人となります。ほどなくして父が亡くなったため、親戚に引き取られます。

19歳の時、江戸へ出て堀内正春の道場に入門しますが、天性の剣術の才能を発揮してすぐさま免許皆伝となり、「堀内道場の四天王」と呼ばれるようになります。なお、この「四天王」の一人に四十七士の「奥田孫大夫」がいました。

「18人斬り」の評判が広まったため、赤穂藩士堀部弥兵衛は彼を大変気に入り、1694年に婿養子にしてその娘と結婚させます。それと同時に彼は赤穂藩士となります。いわば「中途採用組」です。彼は御使番・馬廻役を務めました。

彼は意外にも几帳面な文筆家で酒はあまり飲めなかったようです。彼は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残しています。この日記は討ち入りに関する重要書類をまとめて編集したもので、討ち入り直前に堀内道場の同門の親友で儒学者の細井広沢に編纂を委ねています。

3.討ち入りでの働き

「松の廊下刃傷事件」(1701年3月14日)で再び浪人となった彼は、奥田孫大夫・高田郡兵衛とともに「一同籠城の覚悟ならば城を枕にしよう」との決意で赤穂に赴きます。赤穂に着くと、「既に開城することに決した」と聞いた三人は、大石内蔵助に強硬に抗議しますが、説得されて江戸に戻ります。

1701年11月10日に江戸で彼は大石と会談し、大石は「一周忌となる1702年3月14日の決行」を約束して京に戻ります。しかし大石は一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしませんでした。そこで彼は再度大石と会談すべく1702年6月29日に京に入ります。伏見橦木町などでの大石の遊蕩ぶりが耳に入っていたこともあり、彼は「事と次第によっては大石を斬り捨てるつもりだった」とも言われています。しかし、7月18日にお家再興が絶望的になったことから大石も覚悟を決め、彼も招いて「円山会議」を開き仇討ちを決定します。

彼は最初から最後まで仇討ち一途の「江戸急進派」の急先鋒でした。血気盛んな人物だったようです。

太平の世が百年近く続いた元禄時代にあって、四十七士の中で実際に人を斬った経験があるのは堀部安兵衛だけでした。その彼の「高田馬場の決闘」での実戦体験から、彼の助言で四十七士の討ち入り装束に鎖や針金を加えたことが討ち入り成功の要因の一つと評価する人もいます。

辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思へば」「忠孝に命を捨つる武士の道矢たけ心の名をや残さん」

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