藤原兼子とは?後鳥羽上皇を支えた影の実力者で、北条政子とも対決!?

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藤原兼子

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、スイス出身のシルビア・グラブさんが藤原兼子を演じることになっています。

1.藤原兼子とは

藤原兼子(ふじわらのけんし)(1155年~1229年)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官で、刑部卿(ぎょうぶきょう)・藤原範兼(ふじわらののりかね)の娘です。通称は「卿局(きょうのつぼね)」。位階の昇進に応じて「卿三位」、「卿二位」とも。後鳥羽天皇の乳母(めのと)となりました。

同じく後鳥羽天皇の乳母である藤原範子(ふじわらのはんし/のりこ)は姉です。範子と前夫の娘・源在子(みなもとのありこ/ざいし)は後鳥羽天皇の妃となり土御門天皇を産みます。叔父の藤原範季(父・範兼の養子になっているので義兄となる)は後白河法皇の院近臣で、後鳥羽天皇の養育にあたりました。範季の娘・藤原重子(ふじわらのじゅうし/しげこ)(修明門院)は後鳥羽天皇の妃となり、順徳天皇を産んでいます。

後鳥羽天皇の乳母として後鳥羽院政で隠然たる権勢をふるい、将軍源実朝の妻に自分の養女(坊門信清の娘)を勧め、実朝の後継に頼仁親王を推すなど幕府対策に手腕を発揮し、朝幕関係の改善に努力しました。

後鳥羽上皇の長男・土御門天皇の外戚であった土御門通親の死後に、彼女は強い権力を握ります。

本来ならば摂政、公暁が主導するはずの除目(朝廷の官職を任命する儀式)を女官でありながら左右し、また一方で北条政子とも関係を築くなど、後鳥羽院政期に暗躍しました。

しかし、「承久の乱(1221年)」(朝廷方が、後鳥羽上皇を中心に皇権回復を目的として討幕の兵を挙げ、鎌倉幕府軍に鎮圧された事件)で、朝廷方が敗れて後鳥羽上皇が隠岐に配流されたため、失意のうちに没しました。

2.藤原兼子の生涯

(1)生い立ちと幼少期

藤原兼子の家柄は、藤原家といっても摂政関白になって大きな持っていたいた「藤原北家」と違って、政治的にあまり力のない「藤原南家」です。

藤原北家・南家

兼子の家は代々学者の家柄で、兼子の父・藤原範兼も大学頭(大学の長官)、東宮学士(皇太子に学問を教える係)、式部少輔(文部省次官のようなもの)でした。

父の藤原範兼はたまたま院政期になって摂関家の力が弱まったので、刑部卿に出世しました。藤原範兼は学者の家柄らしく漢文が専門でしたが、和歌も得意でした。父が「刑部卿」だったため、兼子は「卿局」と呼ばれます。

父・範兼は永万元年(1165年)に死去し、兼子ら子供達は幼くして残されたため、叔父・範季に養育されました。範季は範兼の養子になって家を継いだので、形の上では範季は義兄になります。

(2)後鳥羽天皇の乳母となる

藤原範季が後白河法皇の側近だったため、一門は後鳥羽天皇(後白河法皇の孫)と関係が深く、兼子も乳母として仕えました。

無名の女性でしたが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、45歳で典侍(ないしのすけ/てんじ)となり、政治の表舞台に現れるようになります。独身であった兼子はこの頃に権中納言・藤原宗頼と結婚しています。

(3)範光・兼子兄妹と土御門通親との対立

姉・範子の夫である土御門通親(久我通親)は後鳥羽天皇の乳父として権勢を振るいました。兄の藤原範光は低い官位ながら後鳥羽天皇の近習として重用され、その権勢は土御門通親と並び称されるほどでした。通親が擁する土御門天皇より、守成親王(のちの順徳天皇)を後鳥羽上皇が寵愛した事から、守成を後見する範光・兼子兄妹と通親の間で対立も起こっています。

(4)土御門通親の死後、後鳥羽院政期に権勢をふるう

建仁2年(1202年)、土御門通親が死去し、後鳥羽上皇の独裁が強まるにつれて兼子は範光とともに側近としていっそう重用され、権勢を誇りました。建仁3年(1203年)正月の除目について、藤原定家の『明月記』によれば、「前年までは通親が実権を握っていたが、今年はすべて上皇の意志で行われ、通親に代わって権門女房(兼子)が取り仕切っていた」ということです。

夫・宗頼は結婚から3年後の建仁3年(1203年)正月に死去し、権勢を誇る兼子に通親の弟の久我通資など複数の男が近づき、兼子は同年のうちに太政大臣大炊御門頼実と再婚しました。

(5)源実朝の後継に頼仁親王を推すなど鎌倉幕府の後継問題に介入

建保6年(1218年)正月、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した北条政子と対面します。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられました。

兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に推し、政子も実朝の妻坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされました。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇りました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条政子と「対決」するようですが、北条政子と藤原兼子の関係は実際のところ険悪なものではなかったようです。

承久元年(1219年)、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになります。最終的には西園寺公経の奔走により、摂関家の子息・藤原頼経が次期将軍として鎌倉へ下向しました。

(6)「承久の乱」で後鳥羽上皇ら朝廷方が敗れ、権勢を失う

2年後の承久3年(1221年)、兵を挙げた後鳥羽上皇によって「承久の乱」が起こります。上皇は幕府軍に大敗し、中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となりました。

(7)失意のうちに没する

老年の兼子は都に留まり、乱後8年を生きながらえました。その間、延暦寺の僧と所領のことで争い、延暦寺によって京追放、所領没収の訴えを受けたり、倉に強盗が入って権勢の間に蓄えた財物を奪われ、警護の兵が殺害されるなど憂き目にあっています。

寛喜元年(1229年)夏頃、頭部の腫瘍に苦しみ、それがもとで8月16日に75歳で死去しました。残された財産は修明門院に遺贈されました。



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