大英帝国最盛期を築いたヴィクトリア女王とは?

フォローする



ヴィクトリア女王写真

ヨーロッパで有名な女帝と言えば、イングランドとアイルランドの女王だったエリザベス1世(1533年~1603年)、ロシア帝国のエカテリーナ2世(1729年~1796年)、オーストリア大公国のマリア・テレジア(1717年~1780年)などが真っ先に頭に浮かびますが、大英帝国の黄金時代を築いたヴィクトリア女王も忘れてはならない存在です。

ではいったいヴィクトリア女王とはどのような女性でどんな生涯を送ったのでしょうか?

また、彼女の治世である「ヴィクトリア朝」(ヴィクトリア時代)とはどんな特色のある時代だったのでしょうか?

今回はヴィクトリア女王についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.ヴィクトリア女王とは

ヴィクトリア女王肖像画

ヴィクトリア女王(1819年~1901年、イギリス女王在位:1837年~1901年、初代インド皇帝在位:1877年~1901年)は、イギリス・ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世(1738年~1820年)の孫です。

父はジョージ3世の四男のケント公爵エドワード(1767年~1820年)の一人娘で、母はその妃でドイツの小国ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国出身のヴィクトリア(1786年~1861年)です。

フランスのルイ16世の妃でフランス革命の嵐の中で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットもマリア・テレジアの娘であったように、少し意外な気もしますが、ヨーロッパ各国の王室は外国人と結婚することが多く、彼女もドイツ人の血が流れる「混血です。

彼女は、現在のイギリス女王であるエリザベス2世(1926年~2022年、在位:1952年~2022年)の高祖母に当たります。

<2022/9/9追記>エリザベス女王が9月8日、老衰のため96歳で亡くなりました。

謹んでご冥福をお祈り致します。

世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王」として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれています。

彼女は18歳で即位し81歳で亡くなるまで在位は63年7ヵ月にも及び、歴代イギリス国王の中では、エリザベス2世に次いで2番目の長さです。

余談ですが、英国留学中だった夏目漱石(1867年~1916年)は1901年のヴィクトリア女王の盛大な葬儀の行列に遭遇し、見物しています。

2.ヴィクトリア女王の生涯

(1)生い立ち

彼女はロンドンの「ケンジントン宮殿」で生まれましたが、誕生した時の王位継承順位は第5位でした。父のケント公エドワードが四男であったため、3人の伯父と王位継承順位第4位の父に次ぐポジションでした。

しかも、伯父たちに子供ができればその都度順位は下がるため、王位からは遠い存在でした。

「ヴィクトリア」という名前は、母からもらったミドルネームで、本来はドイツの名前です。ファーストネームは「アレクサンドリナ」で、この名前は洗礼の際に父の長兄である摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)とともに代父を務めたロシア皇帝アレクサンドル1世からもらいました。このロシアとドイツの名前「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」は当時、イギリスではなじみの薄い名前でした。

父のケント公は借金まみれで、物価の高いイギリスでは暮らせないとベルギーやドイツ諸国を転々として暮らしていましたが、妃の出産が近づくと、生まれてくる子を「ロンドン出生」にするために流産の危険も顧みず一時帰国し、「ケンジントン宮殿」を兄の摂政王太子ジョージから借り受けました。要するに彼女は「借家生まれ」だったのです。

(2)幼少期

4歳頃のヴィクトリア女王

彼女が生後8ヵ月の時に、父のケント公が亡くなり、その6日後に国王ジョージ3世が崩御しましたため、摂政王太子ジョージがジョージ4世(1762年~1830年、在位:1820年~1830年)としてハノーヴァー朝第4代国王に即位しました。

夫が残した借金を背負った母のケント公妃は、弟のレオポルドから資金援助を受けて「ケンジントン宮殿」で暮らし、彼女を育てました。

(3)女性家庭教師ルイーゼ・レーツェンの教育

ルイーゼ・レーツェン

その育児ぶりは過干渉で、まさに「箱入り娘」のようでした。彼女が5歳の頃に女性家庭教師となったドイツのハノーファー王国出身のルイーゼ・レーツェン(1784年~1870年)(上の画像)は、彼女に勉強を教えるだけでなく、人格形成にも大きな影響を与えました。彼女もレーツェンを信頼し、結婚するまで側近を務めました。

(4)暫定王位継承者となる

1827年に国王の次弟ヨーク公が亡くなり、1830年には国王ジョージ4世が崩御しました。いずれも子供がいませんでした。

そして三弟のクラレンス公ウィリアム(1765年~1837年、在位:1830年~1837年)が65歳という高齢でウィリアム4世として、イギリスのハノーヴァー朝第5代国王およびドイツのハノーファー王国の国王に即位しました。

ウィリアム4世は彼女に王位継承の期待を寄せますが、この時彼女はまだ11歳でした。「暫定王位継承者」に認定されていましたが、イギリスで成人とされる18歳までは王位には就かず、母のケント公妃が「摂政」として権力を得ることになりました。

しかしケント公妃に対する国王ウィリアム4世の不信感と嫌悪感はピークに達しており、何としてもヴィクトリアに直接王位を継承させるため、自ら生への執念を見せました。

(5)18歳で即位

戴冠式のヴィクトリア女王

1837年5月24日に彼女は18歳の成人を迎え、それを追うように6月20日にウィリアム4世はウィンザー城で崩御しました。

これにより、彼女はハノーヴァー朝第6代女王に即位しました。

(6)母の過干渉を避け、ルイーゼ・レーツェンを側近として重用

女王に即位後すぐに彼女は、ケンジントン宮殿から「バッキンガム宮殿」に移りましたが、母ケント公妃の過干渉を避けるために、自分の部屋から遠ざけました。その一方で、レーツェンの部屋を自室の隣に置いて、相談役として信頼し重用しました。

若くして即位した彼女に「政治のイロハ」を教えたのは、即位時の首相・メルバーン子爵(1779年~1848年)(下の画像)です。彼女は彼を父親のように慕い、頼りにしていました。

メルバーン子爵

しかし彼女の即位から2年も経たぬうちに、メルバーン子爵は自らの求心力低下から首相を辞任しました。

代わって相談役として召されたのは、「ナポレオン戦争」(1799年~1815年)の英雄ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーでしたが、60代後半という高齢のために辞退しました。

(7)寝室女官事件

そこでウェリントン公の推薦で、与党保守党のサー・ロバート・ピール(1788年~1850年)(下の画像)を召しましたが、「これからも野党に立場を変えたホイッグ党のメルバーン子爵に相談したい」という彼女の希望を却下しました。

ピール首相

これで彼女とピールの仲は一気にこじれてしまいました。

1839年5月にピールは、女王の側近たる女官たちも保守党議員の妻に交代させるよう進言しましたが、彼女はこれに猛反発しました。

ウェリントン公が仲裁に入りましたが、両者譲らず平行線をたどりました。「政権交代による人事異動」という意味で、ピールの進言は慣習上当然のことでしたが、結局ピールが折れて寝室の女官をそのままにすることになりました。

この結果ピールは首相就任を辞退し、メルバーン子爵が首相に留まることでこの騒動は決着しました。

ナポレオンを破った名将ウェリントン公も、年の差50歳の若き女王が発する啖呵にタジタジとなったこの一件は、後に「寝室女官事件」と呼ばれる有名なエピソードです。

(8)二度惚れしたアルバートとの結婚

アルバート公子

「寝室女官事件」に見られたように頑固で気性の荒い女王に対して、ゴシップ好きのマスコミは「早く結婚したほうがいい」と書き立てましたが、縁談は密かに進んでいました。

お相手は、母の兄ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の息子、つまり彼女の従兄弟であるアルベルト(英語読みでアルバート)(1819年~1861年)(上の画像)です。

即位の前年に彼女は彼に会い、日記にも好印象を綴っています。しかし周囲の周到な「お膳立て攻勢」に反発しましたが、結局20歳になった1839年に引見し、一段とハンサムになり知性溢れる彼に惚れ直して結婚を決意します。

身長が167cmと小柄だった彼に対して、彼女も145cmだったため、お似合いだったのでしょう。1940年2月にロンドンのセント・ジェームズ宮殿で盛大な結婚式を挙げました。

(9)アルバートとの共同統治

ヴィクトリア女王夫妻と長女ヴィッキー

国民からは人気のあったアルバートですが、貴族社会や社交界からは「外国人」として疎まれていました。

そのため彼女は結婚当初、夫が政治的役割を果たすことを嫌っていました。しかし1840年代、子供が生まれるようになると、アルバートは補佐役を務めるようになり、徐々に表舞台にも出るようになり、イギリスは彼女とアルバートとの「共同統治」の状態になっていきました。

特に彼は「二大政党の権力争い」に加担することなく、「王権の中立化」に努めました。彼の影響で、「寝室女官事件」以来ピール首相に不信感を抱いていた彼女の気持ちが変わり、支持へと傾いて行きました。

このような女王夫妻の政治姿勢が、今日のイギリスへと続く「立憲君主制」の足掛かりとなりました。

(10)受難の時代を招くアイルランドの「ジャガイモ飢饉」

1840年代はイギリスにとって「受難の時代」でもありました。1845年にアイルランドで起こった「ジャガイモ飢饉」(ジャガイモが疫病によって枯死したことで起こった大飢饉)は深刻で、100万人が亡くなりました。さらに100万人が北米大陸などへ移住し、深刻な人口減少に陥りました。

この惨状に対して、彼女は「アイルランドとスコットランドの貧民のための英国救貧協会」に2千ポンドを寄付しました。

またピール首相は保護貿易主義の「穀物法」を廃止して、アイルランド人が安い価格の輸入穀物を購入できるようにすることを決意し、女王夫妻もこれを支持しました。

しかしこれに地主貴族などが強く反発し、結局ピールは法案成立と刺し違えて首相を辞任しました。

(11)第1回万国博覧会の開催

ロンドン万博水晶宮で開会宣言するヴィクトリア女王

1851年には、国威と産業・技術大国であるイギリスを世界に知らしめる一大イベント「第1回万国博覧会」がロンドンで開催されました。

アルバートは万博準備から取り仕切り、彼女は「開会宣言」を行いました。万博には140日の期間中に延べ600万人が訪れ、収益も相当額に上ったとされ、主要な道路、ホール、博物館の創設などの費用に充てられました。

ちなみに第1回パリ万博は1855年、第2回ロンドン万博は1862年、第2回パリ万博は1867年、第3回パリ万博は1878年、第4回パリ万博は1889年、第5回パリ万博は1900年に開催されています。

フランスはイギリスに対抗するかの如く、短期間に5回も万博を開催しています。1867年のパリ万博は渋沢栄一などの幕府側と五代友厚らの薩摩藩との政治的な駆け引きで有名ですね。

また1900年のパリ万博は当時イギリスに留学中だった夏目漱石も見物しています。漱石は1889年に建設されたエッフェル塔(下の画像)に登って度肝を抜かれた様子を妻の鏡子に書き送っています。

1900年のパリ風景

(12)アルバートの死去と長い服喪期間

夫アルバートは1850年代後半から徐々に健康を害するようになりました。溺愛していた長女のヴィッキーが1858年にプロイセン王子フリードリヒ(後のドイツ皇帝フリードリヒ3世)に嫁いでから急激に元気がなくなり、さらには皇太子バーティ(後のドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ朝初代国王)が引き起こす不良行為や問題行動も悩みの種でした。

1861年、ついにアルバートは42歳の若さで亡くなりました。悲しみに暮れた彼女は、その後10年以上にわたって喪に服し、公の場に現れることもほとんどなくなりました。

服喪期間があまりにも長いため、次第にマスコミや世間からも批判の声が高まって来ました。

しかし、彼女は内政への無関心を装いながらも、外交には高い関心を持ち、国外での欧米諸国による問題への介入を阻止し、一方でヨーロッパの平和が脅かされる問題へは積極的な介入を支持するなど、深く政治に関わりました。

(12)大英帝国の「植民地政策」の推進

保守党の首相であるベンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)(下の画像)の励ましで公務に復帰した彼女は、世界各地を植民地化・半植民地化する「帝国主義政策」を支援しました。

彼女は、ディズレーリ内閣植民相カーナーヴォン伯爵の次のような見解を熱烈に支持していました。しかしこれは、キリスト教文化を持つ白人国家の非白人・非白人国家に対する上から目線の差別的な抑圧・押し付けにほかならず、手前勝手な理屈だと私は思います。

平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義である。英国の領土拡張は弱い者いじめではなく、英国の諸制度と健全な影響を必要とあれば武力をもって世界に押し広げるものである。

ディズレーリ

彼女の治世下で大英帝国は、世界各地での植民地化・半植民地化を一層推し進めました。彼女の治世63年7ヵ月のうち、世界各地の植民地やヨーロッパ大陸でイギリス軍が戦争をしなかったのはたった2年間だけでした。

「アフガニスタン戦争」(第一次:1839年~1842年、第二次:1878年~1880年)、「アヘン戦争」(1840年~1842年)、「インド大反乱」(1857年~1859年)、「アシャンティ族との戦い」(第一次:1824年、第二次:1873年~1874年、第三次:1893年~1894年、第四次:1895年~1896年)、「ズールー族との戦い」(1879年)、「マフディーの反乱」(1881年~1899年)、「ボーア戦争」(第一次:1880年~1881年、第二次:1899年~1902年)、「クリミア戦争」(1853年~1856年)など枚挙にいとまがありません。

1877年に彼女は初代インド皇帝(女帝)となり、植民地政策は強硬に推進されました。この当時、大英帝国は地球上の陸地と人口の4分の1を支配しました。

一方では植民地の原住民の権力者の権限を温存させたり、その子息たちに教育を施すなど、インカ帝国を滅亡させたスペインや西インド諸島のマルティニーク島の原住民を殲滅したフランスなどの植民地支配と比較すると温情的な面もあったようです。

ただしイギリスにも、北アメリカ大陸の植民地化の中で起きた先住民であるインディアンへの迫害(インディアン絶滅政策)がありました。

(13)晩年

彼女は晩年は病気がちになることが多くなりましたが、精力的に公務をこなし、1901年に脳出血によって81歳で亡くなりました。

3.ヴィクトリア女王にまつわるエピソード

(1)直情径行、わがまま、頑固で短気ながらも情に厚い性格

彼女はとても短気で、直情径行、わがまま、頑固で、自分に反抗する人は自分の子や孫でも信用せず、排除しようとしました。

しかしその一方で情に厚く、気に入った人物や理解者には全幅の信頼を置きました。

(2)子孫は英国王室から欧州各国の王室に散らばる

ヴィクトリア女王家系図ヴィクトリア女王以来の王室家系図

ヴィクトリア女王の家系図を見ると、夫アルバートとの間に4男5女が生まれています。

長女ヴィッキー(1840年~1901年)はドイツ皇帝フリードリヒ3世の妃となり、後にドイツ皇帝になったヴィルヘルム2世を生んでいます。

長男のバーティ(1841年~1910年、在位:1901年~1910年)は、母から王位を継ぎエドワード7世となって、ザクセン=コーブルク=ゴータ朝の初代イギリス国王、さらにはインド皇帝も継承します。

次女のアリス(1843年~1878年)はヘッセン大公国のルートヴィヒ4世の妃となり、その四女アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となりました。

エドワード7世以降、現在のエリザベス女王へとつながる王位を見ると、エドワード7世の次男がウィンザー朝の初代国王で後のジョージ5世(1865年~1936年、在位:1910年~1936年)です。

ジョージ5世の長男エドワード8世(1894年~1972年、在位:1936年1月20日~1936年12月11日)は、父の死を受けて独身で即位しましたが、不倫騒動(「王冠を賭けた恋」として有名)が引き金となってその年の12月11日に退位しています。

すぐ下の次男アルバート・後のジョージ6世(1895年~1952年、在位:1936年~1952年)は、最後のインド皇帝(1936年~1947年)にして、最初のイギリス連邦元首(1949年~1952年)となりました。

このジョージ6世は、吃音症を克服して大英帝国全土に向けて国民を鼓舞するラジオ演説を行った映画「英国王のスピーチ」で有名ですね。

ジョージ6世の第一子で長女として誕生したのが、現在のエリザベス2世です。彼女は1952年に即位以来今に至るまで続いていますので、歴代最長在位(現時点で69年)となっています。

(3)ヴィクトリア家の悲劇の血ー血友病の家系

ヴィクトリア女王と血友病家系図

ヴィクトリア家には「血友病」の因子を持った血が継承されています。

「血友病」は、「血液凝固因子」が生まれつき不足または欠乏している病気です。そのため、けがや打撲などで一度出血すると、血が止まるまでに時間がかかります。

「血友病」は「X染色体上の遺伝子の欠陥による劣性遺伝」で、父親から息子へはX染色体を受け継ぎません。

彼女の子孫の男子の中に血友病を発症する者が多くいました。しかし彼女の先祖に血友病になった者の記録はなく、彼女が何らかの突然変異で血友病の因子を持ったと考えられています。

彼女の四男レオポルドは血友病で苦しみ、長女ヴィッキーの三男ジギスムント皇子と四男ヴァルデマール皇子は幼くして感染症で亡くなり、血友病の疑いが指摘されています。

さらにヴィクトリア家から継承された血友病は、英国内のみならず国外の王室にももたらされています。次女のアリスは血友病の因子を持ち、娘アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世(*)の皇后となりましたが血友病の因子を持っており、孫でヴィクトリア女王のひ孫に当たる最後のロシア皇太子アレクセイは幼い頃から血友病で苦しみました。

また五女のベアトリスを通じてスペイン王室ブルボン家にも血友病がもたらされたことがわかっています。

(*)余談ですが、ロシア皇帝ニコライ2世(1868年~1918年、在位:1894年~1917年)は、皇太子時代に1890年~1891年にかけての世界旅行の途次、来日しましたが、1891年5月に大津市内で巡査津田三蔵に斬りつけられる事件(大津事件)に遭遇しました。

(4)絵が得意だった

絵がうまく、特にスケッチ画が得意でした。彼女の自画像、歴代のイギリス首相やフランス皇帝ナポレオン3世の絵は、ロイヤル・コレクションに残されています。

下の「自画像」は1835年作で16歳の頃です。

1835年ヴィクトリア女王の自画像スケッチ

(5)夫の死後、秘密結婚をした?

彼女が42歳の時、同い年の最愛の夫アルバートが亡くなり、隠居生活で引きこもっていた時、侍医は体に悪いと乗馬や馬車で出かけることを勧めました。

その関係で親しくなったのが、夫の馬係であったスコットランド人のジョン・ブラウン(1826年~1883年)(下の画像)です。

ヴィクトリア女王の使用人ジョン・ブラウンヴィクトリア女王とジョン・ブラウン

当時は王族や首相も、彼女に会うためにはブラウンを通さなくては会えなかったそうです。

二人の親密な関係はマスコミにも取り上げられ、不釣り合いな関係は世間でも噂になりましたが、実際に夫婦関係があったかについては今でも不明です。

(6)教養が浅薄だった?

夫のアルバートは、自分に比べて彼女の教養が浅薄であることを気に掛けていました。彼は科学や技術に精通していましたが、彼女にはその分野の知識は皆無でした。

芸術や音楽の分野には多少通じていたものの、彼の高い教養には遠く及ばないレベルでした。

彼はこれを彼女の家庭教師だったルイーゼ・レーツェンのせいだと考えており、それが1842年に彼がレーツェンを宮廷から追放した理由でした。

(7)「ドイツ人」のイギリス女王

彼女にはイギリスよりドイツの血の方がはるかに濃く流れています。計算上、彼女に流れるステュアート家の血は256分の1に過ぎず、残りはほとんどドイツ人の血でした。

そのため、彼女は日頃から親独派でした。ドイツから来た夫アルバートも同様で、女王夫妻はドイツ語で日常会話をすることが多かったそうです。

夫アルバートは彼女以上にドイツ人としての意識が強く、「最終的にドイツ諸国、イギリス、ベルギー、デンマーク、スイスなど『ドイツ民族諸国』を一つにして、ロシア、フランス、およびヨーロッパの民主化の風潮に対抗する勢力にしたい」と考えていたそうです。

(8)切り裂きジャック事件についての噂

「切り裂きジャック」とは、「1888年にロンドンの「ホワイトチャペル」とその周辺で犯行を繰り返した正体不明の連続殺人犯」のことです。切り裂きジャックの標的はロンドンのイーストエンドのスラム街に住む娼婦たちでした。結局犯人は逮捕されず「迷宮入り」しました。

彼女はこの事件に興味を持ち、首相のソールズベリー侯爵、内務大臣ヘンリー・マシューズに対し、事件の前年の1887年にコナン・ドイルの小説で登場したばかりの「シャーロック・ホームズ」のような捜査を求めました。

彼女は「夜に女性ばかりが襲われていることから、一人住まいの男を中心に聞き込みをすべきだ」と主張し、また「犯人の逃亡ルートを探すため、船に対する捜査や夜警の徹底」を求めました。

なお、「皇太子バーティの長男エディ王子(1864年~1892年)が切り裂きジャックだとする噂」が巷に流れていましたが、彼女の耳には入れられていなかったようです。

余談ですが、映画やテレビドラマの「水戸黄門」で悪い者を懲らしめ弱者を助ける名君として有名な徳川光圀(水戸光圀)(1628年~1701年)は、若い頃父からもらった刀の「試し斬り」として「辻斬り」を行っていたという話を聞いたことがあります。

【HD】ヴィクトリア女王 実際の映像 – Queen Victoria Real Footage
『ヴィクトリア女王 最期の秘密』予告編

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村