三浦義澄とは?源氏に忠義を尽くし、三浦氏全盛期を築いた三浦義村の父。

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三浦義澄

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、佐藤B作さんが源氏に忠義を尽くし、三浦氏全盛期を築いた三浦義澄を演じており、後に北条義時の盟友となる三浦義村の父という重要な役どころですが、彼はどのような人物だったのでしょうか?

1.三浦義澄について

伊東・三浦・北条伊東・三浦・北条2

(1)三浦義澄とは

三浦義澄像

三浦 義澄(みうら よしずみ)(1127年~1200年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。桓武平氏の流れを汲む相模の有力武士団・三浦氏の一族で、三浦介義明の次男、通称は次郎(じろう)。「十三人の合議制」(鎌倉殿の13人)の一人です。

ともに伊東祐親の娘を妻にした北条時政とは、若いときからの悪友で息子・義村に全幅の信頼を寄せました。

(2)相模の有力武士団・三浦氏の一族に生まれる

平安末期、武士の台頭により、東国には多くの氏族が誕生しました。その一つである三浦氏は、相模国三浦荘衣笠(現在の神奈川県横須賀市)に本拠を構える大きな武士団でした。この「三浦一族」の始まりは、「前九年の役」(*)での働きの恩賞として三浦の地を与えられたことだとされています。

(*)「前九年の役」(1051年~1062年)とは、平安末期,陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らの反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。「後三年の役」(1083年~1087年)とともに源氏が東国に勢力を築く契機となりました。

三浦義澄は、相模国の在庁官人として国務に参画していた三浦義明(よしあき)の次男として生まれました。幼名は「荒次郎」(あらじろう)と言います。

(3)「平治の乱」で源義平に従い、平家に敗れる

平治元年(1159年)の「平治の乱」では源義平に従いましたが、平家方に敗れて京から郷里の相模に落ち延びました。長寛2年(1164年)、兄・杉本義宗が亡くなり、それによって三浦氏の家督を継ぎます。

(4)源頼朝の挙兵に応じるも悪天候のため「石橋山の戦い」に参戦できず

治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に際しては北条家に同調しますが、「石橋山の戦い」では、悪天候による酒匂川の増水に阻まれて合流できず、水が引くのを待ちましたが、頼朝の敗走を知ってやむなく衣笠城へ引き返すことになりました。

引き返す途中、鎌倉・由比ガ浜で平家方の畠山重忠と戦い、これを破ります。

しかし三浦氏の後を追った重忠は河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長(しげなが)らに加勢を依頼して「衣笠城合戦」となり、衣笠城を攻めて落城させました。この際、父・義明は義澄らを闇夜に乗じて城から脱出させ、自らは翌早朝に河越重頼らに討たれました。

義明は、自らが頼朝の捨石となる代わりに、源氏再興の暁には子孫が要職に就くことを暗に頼朝に願ったのでした。衣笠城を脱出した義澄らは、怒田城(現在の久里浜あたり)から安房(千葉県)へ向けて船を出します。その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流します。

同年9月には、安房国の長狭常伴(ながさつねとも)が頼朝の居所を襲撃しようとしましたが、義澄は事前に察知してこれを敗走させています。

そして、頼朝と共に上総・下総・武蔵を経て、鎌倉に入ったのでした。この後頼朝は、義明の願い通り、三浦一族を重臣として重用していきます。

(5)頼朝から「本領安堵」

治承4年(1180年)10月、駿河国で起こった「富士川の戦い」の帰途、義澄は相模国府で頼朝から「本領安堵(ほんりょうあんど)」のうえ、新恩の所領を与えられます。

本領安堵とは、自分の本領、すなわち代々受け継いだ土地の所有権を公認されることを指します。また、父・義明が叙されていた官位であり、その通称であった「三浦介」(みうらのすけ)の世襲を許可されます。頼朝からのこうした厚遇は、義澄の才覚が高く評価されていた表れだといえるでしょう。

(6)頼朝と敵対した義父・伊藤祐親の助命嘆願をするも祐親は自害

「富士川の戦い」の後、平家側についていた妻の父である伊東祐親(いとうすけちか)(1000年前後?~1182年)が捕らえられました。義澄の助命嘆願によって祐親は頼朝に許され、娘婿の義澄がその身を預かることになりましたが、祐親は自分の娘と頼朝の間にできた子を殺したことを恥じて自害してしまいます。

(7)頼朝の宿老

その後、三浦義澄は福原、及び須磨で勃発した「一ノ谷の戦い」や、平氏滅亡の結末を迎えた「壇ノ浦の戦い」など、源平合戦における主要な合戦にも従軍します。「壇ノ浦の戦い」では、源義経軍から平氏追討の先鋒を命じられ、その討滅に従って功を立てました。

文治5年(1189)、源頼朝は平泉に逃げ込んだ源義経の身柄引き渡しをめぐる対立から、奥州平泉の藤原氏を征服しますが、三浦義澄はこの時も武功を立てています。

こうして義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となります。

(8)頼朝の上洛に随行

建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をしました。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入りましたが子の義村に賞を譲っています。

(9)頼朝の征夷大将軍の任命書受取りの大役

建久3年(1192年)、頼朝が征夷大将軍に任じられると、義澄は頼朝の使者として比企能員(ひきよしかず)以下を従えて、鶴岡八幡宮でその除書(=任命書)を受け取る大役を果たしました。ここからも、頼朝が三浦氏を厚く処遇した様子が見て取れます。

(10)「十三人の合議制」(鎌倉殿の13人)の一人

正治元年(1199年)の頼朝の没後、二代目将軍・頼家(よりいえ)の直裁をとどめ、宿老十三名による合議制(「十三人の合議制」)となったとき、義澄はその一員に加わりました。彼は幕政における重臣の地位を占め、以後の三浦一族が活躍する基盤を築いたのでした。

また、同年12月には、頼朝・頼家と二代にわたり将軍からの信認が厚かった梶原景時を鎌倉から追放する事件(「梶原景時の乱」)が起こりましたが、義澄は弾劾派としてこれに加担します。

そして、梶原一族が討たれた3日後の正治2年(1200年)1月23日に74歳で没しました。

2.三浦氏のその後

義澄は相模国守護となり、甥である和田義盛(わだよしもり)は侍所別当(さむらいどころべっとう)に任ぜられるなど、三浦氏は幕府の重臣として活躍しました。その後、息子の義村は、同氏である三浦胤吉(たねよし)らが後鳥羽上皇側として決起を促していた「承久の乱」でも北条側に付き従い戦いました。義村の子・泰村(やすむら)も同じく北条氏と姻戚関係を結んで強勢を誇りました。

しかし、宝治元年(1247年)に起こった「宝治合戦」において、北条時頼の策謀により、一族はほとんど滅亡してしまいます。これは北条氏内の権力争いに三浦氏が関わったことで、両者の間に疎隔が生じたために起こった戦いでした。

ここで三浦氏一族が自害して滅亡したことから、北条氏の独裁体制が確立したとされています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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