辞世の句(その17)江戸時代 葛飾北斎・松尾芭蕉・加賀千代女・与謝蕪村・柄井川柳・小林一茶・大田垣蓮月

フォローする



葛飾北斎

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第17回は、引き続き江戸時代の「辞世」です。

1.葛飾北斎(かつしかほくさい)

葛飾北斎・自画像

人魂(ひとだま)で 行く気散じや 夏野原

これは「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけよう」という意味です。

葛飾北斎(1760年~1849年)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で「富嶽三十六景」などの作品で有名です。

ゴッホなど海外の画家や芸術家に大きな影響を与えたとされていますが、1849年5月10日に88歳で亡くなるまで生涯画家として創作活動に打ち込み、死を目前にして「天命がもう5年あったなら本物の画家になったであろう」と嘆じたと言われています。

なお葛飾北斎については、「葛飾北斎とは?改名30回・転居93回で88歳まで生きた彼は隠密だった!?」「葛飾北斎 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その4)」「葛飾北斎は、浮世絵や漫画を描いた絵師だが、川柳作者でもあった!?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

2.松尾芭蕉(まつおばしょう)

松尾芭蕉

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

これは「夢の中ではまだ枯野をかけ廻っているけれど、病に倒れた私はもう旅に出ることも出来ない」という意味です。

「病中吟」との但し書きがあり、辞世を意図して詠まれた句ではないとされますが、生涯最後の句となったために一般には辞世の句とされています。

松尾芭蕉(1644年~1694年)は、江戸時代前期に活躍した俳人です。俳諧を完成させ、弟子の曽良と東北・北陸を旅した紀行文「奥の細道(おくのほそ道)」の著者としても有名です。

なお芭蕉については、「芭蕉はなぜおくのほそ道の旅に出たのか?また芭蕉の幕府隠密説は本当か?」「俳聖・松尾芭蕉を批判した勇気ある上田秋成・正岡子規・芥川龍之介・嵐山光三郎」「松尾芭蕉が俳号を桃青から芭蕉に変更したのはなぜか?芭蕉の由来は?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

3.加賀千代女(かがのちよじょ)

加賀千代女

月も見て われはこの世を かしくかな

これは「長らく病を得ていたが、仲秋の名月も見られた。私はこの世からお暇しよう」という意味です。

加賀千代女(1703年~1775年)は、江戸中期の女流俳人です。千代、千代尼、素園、また加賀(かがの)千代とも呼ばれます。

加賀松任の表具屋の娘として生まれ、17歳のとき、北越行脚(あんぎゃ)中の各務支考(かがみしこう)にその才を認められ、諸国に知られるようになりました。

支考ら美濃派の俳人と交遊し、1753年ごろ剃髪(ていはつ)し素園と号しました。その伝記には伝説的な部分が多いですが、俳風は平俗で親しみがあります。

なお加賀千代女については、「加賀千代女 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その2)」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

4.与謝蕪村(よさぶそん)

与謝蕪村

しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり

これは「冬も終わり、ほころび始めた白梅の花が闇(やみ)からしらじらと浮かび上がる夜明けを迎える頃となった」という意味です。

与謝蕪村(1716年~1784年)は、江戸中期の俳人・画家で、摂津の人です。本姓は谷口、のち与謝と改めました。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。

江戸に出て俳人早野巴人(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名乗りました。

浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たしました。絵画では、池大雅とともに日本南画の大成者とされます。

なお与謝蕪村については、「与謝蕪村はどんな人物でどんな生涯を送ったのか?わかりやすくご紹介します」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

5.柄井川柳(からいせんりゅう)

柄井川柳

木枯しや 跡で芽をふけ 川柳 (かはやなぎ)

柄井川柳(1718年~1790年)は、江戸時代中期の前句付けの点者で、「川柳(せんりゅう)」というジャンルを確立しました。名は正通。幼名勇之助。通称は八右衛門。

柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年(1755年)に家を継いで名主となりました。

宝暦7年(1757年)前句付の点者として「無名庵川柳」と号し、最初の万句合を興行しています。これ以降、月3回5のつく日に句合を興行しています。

宝暦12年(1762年)の句合には総句1万句を超し、その流行ぶりがうかがえます。明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された『誹風柳多留』で川柳万句合の人気が高まり、他の点者を圧倒して江戸第一の点者となりました。

その結果、一句で意味が分かる一句立ちの句が「川柳(せんりゅう)」と呼ばれるようになりました。名前が一般名称になった「エポニム」の一例です。

寛政2年(1790年)9月23日に死去しました。

6.小林一茶(こばやしいっさ)

小林一茶

盥(たらひ)から 盥へうつる ちんぷんかん

これは「産湯(うぶゆ)のたらいを使う誕生から死んで湯灌(ゆかん)のたらいを使うまでの一生は、結局、あっという間でちんぷんかんだったなぁ」という意味です。

小林一茶(1763年~1828年)は、江戸時代に活躍した日本を代表する俳人の一人です。母を幼くして亡くし、50歳になってから妻を娶り4人の子をもうけましたが、妻子を相次いで亡くすなど不遇とも言える人生でした。大火により被災して生活していた土蔵の中で亡くなりました。

なお小林一茶については、「小林一茶はどんな人物でどんな生涯を送ったのか?わかりやすくご紹介します」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

余談ですが、一茶の辞世にある「ちんぷんかん」という言葉は、現代の言葉のように聞こえますが、実は江戸時代から使われていました。

「珍紛漢紛」とは「ちんぷんかん」に「ぷん」を重ね、響きをリズミカルにした言葉です。

「ちんぷんかん」は江戸時代から多く使われるようになった言葉で、儒者の用いた難解な漢語を冷やかしてまねた造語からか、外国人の話す言葉の口真似をしたもので、教養のなかった当時の人々によって作られた言葉とされています。

「さっぱりわからない」という意味を表す非常に良く出来た「オノマトペ(擬声語・擬態語)」のように私には感じられます。

なお、中国語には「聞いてもわからない」という意味の「チンプトン」という言葉と、「見てもわからない」という意味の「カンプトン」という言葉があり、この「チンプトン、カンプトン」から出来たとする説もあります。

しかし、「ちんぷんかんぷん」が言葉が全くわからない状況のみを意味していたことや、教養のなかった人々によって広まった背景などを考えると、この説は不自然で「牽強付会(けんきょうふかい)」(こじつけ)のようです。

7.大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)

大田垣蓮月

願はくは のちの蓮(はちす)の 花の上に くもらぬ月を 見るよしもがな

これは「願わくば、極楽往生したのち、蓮の花の上で、曇ることのない月の光を見る手立てがあったなら・・・」という意味です。

大田垣蓮月(1791年~1875年)は、幕末の女流歌人です。名は誠(のぶ)。京都の生れ。夫をはじめ肉親を次々に失い出家し、蓮月尼(れんげつに)と通称されました。

自詠の歌を書いた陶器を焼いて生活の資とし、清廉孤高の生涯を送りました。女性らしい繊細な叙景歌が多く、野村望東尼(もとに)と並ぶ幕末の代表的女流歌人です。

なお大田垣蓮月については、「大田垣蓮月 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その16)」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村