源義経は天才的な戦術家だが、幼稚で無邪気なサイコパスで小柄な醜男だった!?

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源義経

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菅田将暉さんが源義経を演じています。

源頼朝の異母弟で「源平合戦」では八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍をし、平家を滅亡に追いやった功績は大きかったにもかかわらず、兄・頼朝から疎まれ、最後は追われる身となって「奥州合戦」で討死したと言われています。ただし、死亡したかどうかははっきりせず、蝦夷地(えぞち)(現在の北海道や樺太・千島)で生き延びたとか、大陸に渡ってチンギス・ハンになったなど多くの伝説が残っています。

私は、高校生の時にある先生から「源義経は、芝居に出てくる光源氏のような色白で美男の御曹司ではなく、実際は色浅黒く小柄で野卑な醜男(ぶおとこ)だった(らしい)」という話を聞かされて幻滅した記憶があります。

「判官びいき」の義経ファンには「悲劇のヒーロー」のイメージが壊れて納得がいかないかもしれませんが、本当はそれが義経の実像だったのではないでしょうか?

彼は実際のところ、果たしてどのような人物だったのでしょうか?

ところで歴史上の人物で、有名な肖像画などがある人はイメージしやすいものです。

しかし源義経のように、あまり有名でない中尊寺蔵の肖像画(下の画像)しかない場合は、「義経千本桜」などの芝居で多くの人がイメージしている義経とあまりにも違い過ぎるので、冒頭に菅田将暉さんの画像を入れました。

源義経の肖像画・中尊寺蔵

義経千本桜

1.源義経とは

源氏の相関図1

源氏の相関図2

源義経(みなもと の よしつね、源義經)(1159年~1189年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟で、仮名は九郎、実名は義經(義経)です。

清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝(1123年~1160年)の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれました。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)だった側室・常盤御前(ときわごぜん)(*)(1138年~没年不詳)です。

(*)『平治物語』によると、常盤御前は、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり藤原伊通の命令によって都の美女千人が集められ、その百名の中から十名が選ばれました。その十名の中で聡明で一番の美女であったということです。

後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産みました。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となりました。

その後、子供達を連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着きました。しかし、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから、清盛の元に出頭しました。

出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願しました。

その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は、頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命しました。

なお、「常盤が清盛の妾になることによって子供達の助命がかなった」ということが、一般的に知られている話です。上記の通り室町以降に成立した物語では常盤が子供達の命を助けるために清盛と男女関係になったということが記されていますが、鎌倉時代に成立したとみられる古態本『平治物語』においては子供達の助命と常盤が清盛の子を産んだ話の間には一切の関連性がありません。

常磐御前常磐御前2常磐御前と子供たち

「平治の乱」(1160年)で源義朝が敗死したため、常盤御前はその係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若を抱いて2人の兄・今若(後の阿野全成)と乙若(後の義円)と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れました。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになりました。

後に常盤は公家の一条長成(いちじょうながなり)(生没年不詳)に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗りました。

しかしやがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下りました。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝(つて)をたどった可能性が高いようです。

兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となりました。

その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされました。

全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼りました。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃したと言われています。

泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、1189年閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲いました(衣川の戦い)。

義経の郎党たちは防戦しましたが、ことごとく討たれました。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の「郷御前(さとごぜん)」(1168年~1189年)(河越重頼の娘)と4歳の女子を殺害した後、自害して果てたということです。享年31。

ちなみに有名な「静御前(しずかごぜん)」(生没年不詳)(白拍子)は、愛妾です。

奥州藤原氏と義経相関図

その最期は世上多くの人の同情を引き、「判官贔屓(ほうがんびいき/はんがんびいき)」という言葉をはじめ、多くの伝説や物語を生みました。

2.源義経の性格などの人物像

(1)バーサーカー(*)のような天才的な戦術家

(*)「バーサーカー」とは、元々は「ベルセルク」と呼ばれる、北欧神話に登場する異能の戦士たちのことです。英語表記では「Berserker(バーサーカー)」と書き。元々のノルウェー語では「Berserk(ベルセルク)」と書きます。日本語では「狂戦士」と訳されます。

この北欧神話がイギリスに伝わって英語の 「go berserk (我を忘れて怒り狂う)」という表現の語源となりました。また「 berserk」だけで「狂戦士」「凶暴な人」という意味の名詞にもなります。

また後の北欧語では「ベルセルク」という言葉は、しばしば単なる無法者、乱暴者の意味で使われます。これは、北欧では豪族や農民が武器をとって戦うことが多く、人殺しのみを生業とする職業軍人が、異常者として蔑視されていたためです。11、12世紀以降、北欧が完全にキリスト教化されると、異教の価値観の産物である「ベルセルク」は異端者や犯罪者とされ消えて行きました。

「一ノ谷の戦い」(1184年)での「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」(注1)や、「壇ノ浦の戦い」(1185年)での「義経の八艘飛び(はっそうとび)」(注2)のように、奇想天外な戦術で敵を驚かせ、大勝しました。

(注1)精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をします。

平家物語』によれば、義経が馬2頭を落としたところ、1頭は足を挫いて倒れましたが、もう1頭は無事に駆け下りました。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下りました。坂東武者たちもこれに続いて駆け下りました。

二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づきましたが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下り、義経らもこれに続きました。

大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下りました。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいなかったそうです。

崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入しました。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけました。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出し、四国の屋島へと敗走しました。

義経・鵯越の逆落とし

鵯越の逆落とし馬を背負う畠山重忠

鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分ります。これが逆落しを意味すると解釈されています。

(注2)「義経の八艘飛び」とは、「壇ノ浦の戦い」で平家の猛将である平教経(たいらののりつね)(1160年~1185年)が源氏方の大将である源義経を討ち取ろうとした際に、源義経が舟から舟へと飛び移って海上を巧みに移動し、平教経から逃げおおせたという伝説のことです。

京の五条の橋の上での牛若丸と弁慶との対決の伝説を彷彿とさせるような話ですね。

牛若丸と弁慶

しかしながら当然戦の場に出ていたとなると源義経も鎧を着込んでいたはずであり、本当に舟の上を身軽に飛んで渡ることができたのかについては議論があります。

義経・八艘跳び

源義経の八艘飛び伝説については『平家物語』以外の文献には見られないことからも、事実だったのかどうか議論が続けられてきました。

この記述の中には、特に源義経が8隻の舟の上を次々と飛んでいったというような詳細な描写はなく、八艘飛びという言葉と伝承は後世に付け足されたものと考えられています。

(2)兄・頼朝の家臣に甘んじなかった野心家

元服した義経は黄瀬川で兄・頼朝と感動の対面を果たし、頼朝と共に平家を追い詰め、悲願であった平家滅亡を果たします。

しかし、頼朝はあくまでも義経を家臣の一人として扱い、義経は頼朝の家臣という自覚がなかったため、朝廷から勝手に官位を受けるなどの勝手な行動で頼朝を激怒させてしまい、鎌倉から追放されてしまいます。

そして義経は山伏に身をやつして、逃亡の日々を送ります。なんとか奥州にたどり着くものの、鎌倉からの再三の圧力に屈した奥州平泉の藤原泰衡に裏切られて、わずか31歳の短い生涯を終えることになりました。

義経には「親・義朝の仇討ちとして平家を滅ぼす」という思いはあっても、頼朝のような「武家政治の構想はなかった」か、あったとしても「平家と同じような政治スタイルしか考えていなかった」のではないかと思います。

だからこそ朝廷から高い官位を受けたりしたのです。これは後白河法皇に利用された面も強いと思います。

義経と頼朝の間に確執が生じた理由は諸説ありますが、義経が頼朝の政策を十分に理解していなかったからとする説もあれば、義経が後白河法皇の策略に踊らされてしまったという説もあります。

後白河法皇は源氏が台頭する世の中をよしとせず、天皇中心の政治に戻したいと考えていました。そこで兄弟を争わせて弱体化を図ったというのです。

また頼朝は、貴族社会から脱し、「武家政治」(武士による国家運営)を推し進めていく構想をもっていたので、朝廷からの官位を許可もなく受けた義経を許すわけにいかなかったとも考えられます。また、義経と奥州藤原氏とが手を組んで反撃を企てていると勘ぐったともいわれていますが確かなことはわかっていません。

(3)「鎌倉殿の13人」では義経は「幼稚で無邪気なサイコパス」として描かれている

小説家の司馬遼太郎(1923年~1996年)は、その作品『義経』の中で、義経を「世界史的に稀有なジェネラル(将軍)の才能の持ち主だが政治的痴呆」と評しています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「政治的痴呆」からさらに踏み込んで、「幼稚で無邪気なサイコパス」(*)として描かれているようです。

(*)「サイコパス」とは、『反社会性パーソナリティ障害』という精神病質者のことです。

カナダ出身の犯罪心理学者でサイコパス研究の第一人者であるロバート・D・ヘア(1934年~ )はサイコパスの特徴として下記をあげています。

・良心が異常に欠如している

・他者に冷淡で共感しない

・慢性的に平然と嘘をつく

・行動に対する責任が全く取れない

・罪悪感が皆無

・自尊心が過大で自己中心的

・口が達者で表面は魅力的

ウサギの取り合いで猟師と矢を遠くに飛ばす勝負をすると言ってその猟師を射殺したり、戦に出してもらえないと癇癪を起こしたり、義円を追い出すために騙したりしたエピソードがそれです。

これは史実ではなく、デフォルメされた作り話かもしれませんが、脚本家・三谷幸喜さんの義経に対する見方を端的に表しています。

(4)史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人物の義経評

・『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留めました。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留めることを諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送りました。

・同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日、鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じました。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引きました。

・九条兼実の日記『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日の「一ノ谷の合戦」後、義経は討ち取った平氏一門の首を都大路に引き渡し獄門にかけることを奏聞するため、少数の兵で都に駆け戻りました。朝廷側は平氏が皇室の外戚であるため、獄門にかけることを反対しましたが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平氏の首は都大路を渡り獄門にかけられました。

・『吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平氏の残党を恐れる貴族達は、四国へ平氏追討に向かう義経に都に残るよう要請しますが、義経は「2、3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返すことになれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大なことになります」と引き止める貴族達を振り切って出陣しました。『吾妻鏡』によると、2月16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた高階泰経(後白河院の使者)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊きました。

これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣しました。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いています。

また18日、義経は船で海を渡ろうとしましたが、暴風雨が起こって船が多数破損しました。兵達は船を一艘も出そうとしませんでしたが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多いことである。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着しました。

・「壇ノ浦の合戦」後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いています。

その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面がうかがえます。

・「壇ノ浦合戦」後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とあります。

・『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べました。

院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じましたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったということです。

・追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになりましたが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去りました。

『玉葉』の作者である九条兼実は頼朝派の人間でしたが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えています。

3.源義経の容貌・体格

義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しません。これは他の歴史上の人物にも共通することで、当時の肖像画の多くは神社仏閣に奉納する目的で描かれたもので、死後に描かれるのが通常だからです。

身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると147cm前後くらいではないかと言われています。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かなことは不明です。

義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の家人・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べています。これは「鶏合」の段で、「壇ノ浦合戦」を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものです。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされています。

義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれています。その一方で『平家物語』をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もあります。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続きます。

『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べています。

江戸時代には猿楽(能楽の古称)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博しましたが、そこでの義経は容貌を美化され美男子の御曹司義経の印象が定着していきました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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