平賀朝雅とは?北条家の内紛に翻弄され第4代鎌倉殿になり損ねた御家人。

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平賀朝雅・山中崇

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

ところで、平賀朝雅とはどんな人物かご存知の方は少ないのではないかと思います。「北条時政」(演:坂東彌十郎)と後妻の「牧の方」(りく)(演:宮沢りえ)の娘婿と言えば、ピンと来た方がおられるかもしれません。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では山中崇さんが演じることになっています。

1.平賀朝雅とは

北条氏と牧氏の関係図

平賀朝雅(ひらが ともまさ)(1182年~1205年)は、鎌倉幕府の御家人で父は平賀義信、母は比企尼(頼朝の乳母)の三女です。頼朝の猶子となっています。

ちなみに父の平賀義信は、新羅三郎義光(しんらさぶろうみつよし)の流れを汲む源氏一門として源頼朝に重用されました。

2.平賀朝雅の生涯

平賀朝雅

(1)武蔵守

任命時期は不明ながら父・平賀義信(1184年~1195年)、兄・大内惟義(おおうちこれよし)(生没年不詳)の後を継いで「武蔵守」に任じられています。

(2)「比企能員の変」では北条氏側につき、比企氏を討伐

建仁2年(1202年)、比企氏出身である母が死去。翌建仁3年(1203年)9月に起こった比企氏と北条氏の対立による「比企能員の変」では、双方と縁戚関係を持つ朝雅は北条氏側として比企氏討伐軍に加わっています。

(3)京都守護として都に派遣される

2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗じた謀反を防ぐべく「京都守護」として都に派遣されました。

(4)平家残党の反乱(三日平氏の乱)を鎮圧し、伊賀・伊勢の守護に任じられる

同年12月、幕府の政変に乗じて伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱が起こると、守護の山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)(1137年~1225年)が逃走し朝雅に鎮圧が命じられます。翌元久元年(1204年)4月、朝雅はその鎮圧に成功し、その功績により伊賀・伊勢の守護職に任じられます(三日平氏の乱)。

(5)院の殿上人となり後鳥羽上皇に重用される

また藤原定家の『明月記』によると鎮圧の便宜を図るため、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に任じられており、御家人としては破格の扱いを受けていました。その後、院の殿上人となって後鳥羽院に重用されました。

(6)御台所を迎えるための上洛時に畠山重保と口論

建仁3年(1204年)11月、源実朝の御台所を京都から迎えるため、朝廷や公家との交渉役を務めます。その際、御台所を迎えるために上洛していた武蔵国の御家人・畠山重保(畠山重忠の息子)と朝雅の間で口論となりました。

このとき選ばれた鎌倉からの使者は、いずれも鎌倉幕府の次世代を担う若き2代目御家人たちでした。

上京した鎌倉幕府からの使者たちは、同年11月、有力御家人であった平賀朝雅の邸宅を訪れ、平賀朝雅がこれをもてなすために開いた祝宴で事件が起こります。

祝宴の場で平賀朝雅と畠山重保との間で言い争いが起こったのです。

この口論自体は、周囲のとりなしで言い争い自体は収まったのですが、平賀朝雅がこの事実を牧の方に報告をしたことから一大事件に発展します

(7)畠山重忠の乱

翌元久2年(1205年)6月、先の口論に端を発した「畠山重忠の乱」が起こり、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐されます。

吾妻鏡』は、朝雅が重保との争いを妻の母・牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したためとしています。

畠山氏は武蔵の最有力御家人で、武蔵国の国司であった朝雅とは深い関係がありました。朝雅の舅で幕府の実権を握っていた北条時政は朝雅の後見人として、朝雅の上洛後に武蔵国の行政権を握っており、武蔵武士団の棟梁である畠山重忠と対立する関係になっていたのです。

(8)「畠山重忠の乱」は北条時政と後妻「牧の方」による陰謀

時政は畠山父子を排斥すべく謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子の北条義時・時房は反対しましたが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時・政子の対立が決定的になったと『吾妻鏡』は書いています。

これは時政の先妻の子(義時・政子)と後妻の娘婿(朝雅)を担ぐ時政との北条家内の対立と、鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る畠山氏と北条氏の軋轢が背景にあったものと考えられます。

(9)実朝を廃して朝雅を第4代鎌倉殿に擁立しようとした「牧氏事件」(牧氏の変)

牧氏事件

元久2年(1205年)閏7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚しました(牧氏事件)。

北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月、第3代鎌倉殿である源実朝を暗殺して、娘婿である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする動きを見せ始めます。

このとき神輿として担がれた平賀朝雅もその気になり、北条時政と牧の方の計画に加担してしまいます。

もっとも、源実朝の母である北条政子にとっては、自分の子の暗殺計画など許せるはずがありません。

また、北条義時にとっても、牧の方の娘婿である平賀朝雅が第4代鎌倉殿になるということは、北条家の実権が自分ではなく牧の方側が得ることを意味しますので、到底承服できません。

そこで、北条政子と北条義時が協力し、北条時政・牧の方の排除を計画します。北条家における先妻派閥と継室派閥との争いがついに具現化したのです。

元久2年(1205年)閏7月19日、北条時政は、源実朝を暗殺するため、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れます。

この動きに危機感を感じた北条政子・北条義時・阿波局らは、結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを北条時政邸に遣わして、北条時政邸にいた源実朝を奪い取り、北条義時邸に迎え入れます。

このときの北条義時方の動きに、北条時政に味方していた御家人までも同調したため、北条時政・牧の方による平賀朝雅将軍就任計画(牧氏の変)は失敗に終わります。

鎌倉殿暗殺計画が失敗に終わり、完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月20日に出家し、同年閏7月21日、鎌倉から追放されて伊豆国・北条荘園にて隠居させられることになります。

そして、次は、北条時政による鎌倉幕府簒奪計画の神輿となった平賀朝雅です。

(10)最期

北条義時は、第3代鎌倉殿の暗殺計画の共謀者であるとして平賀朝雅の処断を決定します。

後ろ盾を失った平賀朝雅に抗う術はありません。

北条義時は、京に山内首藤通基(経俊の子)を派遣し、元久2年(1205年)8月2日、クーデター首謀者の1人という理由で、当時、「京都守護」を兼ねていた平賀朝雅を殺害します。

なお、藤原定家の『明月記』や慈円の『愚管抄』によると、朝雅の最期は次のようになっています。

実朝の名で在京の武士に「朝雅を討て」と命を下し、後鳥羽上皇にも奏上しました。六角東洞院(現在の中京区)の朝雅の家を武士が取り巻いて攻めたため、しばらくは応戦した朝雅も家に火をかけてから打って出て大津の方へ落ち延びました。

わざと退路を開けて落ち延びさせようとしたようで、朝雅は山科(現在の山科区)まで着きましたが、追ってくる武士もあり、そこで自害したということです。伯耆国の守護の金持という武士が朝雅の首をとって持参したので、後鳥羽上皇も御車に乗って大炊御門の面まで出てそれを実検したとあります。

平賀朝雅の最期は、何だか源範頼の最期とよく似ていますね。源義経とともに平氏追討を行い、平氏滅亡に功績のあった範頼ですが、「曾我兄弟の仇討事件」で頼朝が暗殺されたとの誤報をもとに、三善康信が朝廷に頼朝死亡の手紙を書き、比企能員が「次の鎌倉殿は源範頼しかいない」と唆したのに、うっかり乗ってその気になり、最後は頼朝によって「謀反の疑い」で誅殺されることになりました。



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