後鳥羽上皇とは?「承久の乱」を起こして敗れ、隠岐に配流された波瀾の生涯

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後鳥羽上皇・尾上松也

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「後鳥羽天皇」(後の後鳥羽上皇)を菊井りひとさん(幼少期は尾上凛さん)が演じています。

第27回(7月17日放送)からは尾上松也さんが「後鳥羽上皇」を演じます。

後鳥羽上皇相関図

1.後鳥羽上皇(後鳥羽院)とは

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇(1180年~1239年)は、高倉天皇の第四皇子で、母は、坊門信隆(ぼうもんのぶたか)の娘・「殖子(しょくし/たねこ)」(七条院)です。諱は尊成(たかひら/たかなり)。後白河法皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たり、第82代天皇(後鳥羽天皇)(在位:1183年~1198年)となった人物です。

1183年に安徳天皇の後を受けて3歳で即位しますが、1198年に18歳で土御門天皇に譲位」し、以後1221年までの23年間の長きにわたり「院政」を敷きます。鎌倉幕府に対しては「皇権回復」を目指して強い対抗心を持ち、「強硬路線」を貫きました。

後鳥羽院上皇は、「新古今和歌集」を編纂したことでも知られていますが、1221年(承久3年)に鎌倉幕府執権の北条義時に対抗して討伐の兵を挙げた「承久の乱(じょうきゅうのらん)」で敗れて隠岐に配流となり、同地で亡くなっています

余談ですが、後鳥羽天皇の離宮「水無瀬殿」は高槻市の東側の島本町にあり、その跡に建てられたのが「水無瀬神宮」です。

「承久の乱」で大勝した鎌倉幕府はこれによって一挙に西国に勢力を拡大し、「全国政権」としての基礎を固めました。

後鳥羽上皇・家系図

2.後鳥羽上皇(後鳥羽院)の生涯

(1)「三種の神器」なき即位

寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れました。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれました。

この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していました。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託しました。結果は後者でしたが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たということです。

法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問しました。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示しましたが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)と勅答しています(『玉葉』寿永2年8月6日条)。

10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めました。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっています。

新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙しましたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めました。この即位については丹後局の進言があったということです。

8月20日、後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施されました。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施されました。

安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複しています。「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収されることがありませんでした。文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念されました。

以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われました。承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも「三種の神器」が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととしました。

しかし、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせています。伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けました

また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合がありました。後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては「承久の乱」の遠因になったとする見方もあります。

(2)天皇としての治世

建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続きました。後白河院の死後は関白・九条兼実が朝廷を指導しました。兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現しましたが、後に頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となりました。

これは土御門通親の策謀によるとも言われます。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ、宮中から追われました。この政変には頼朝の同意があったとも言われています。

(3)上皇としての院政

建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り太上天皇(上皇)として院政を敷きました。

19歳で院政を開始した上皇は次第に不羈奔放(ふきほんぽう)な性質を発揮するようになりました。

上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採りました。

建仁2年(1202年)に九条兼実が出家し、土御門通親が急死しました。既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となり、以後は専制君主として君臨しました。

上皇は水無瀬(みなせ)(大阪府三島郡島本町)や宇治(うじ)(京都府宇治市)などに華麗な離宮を営み、あるいは各地へしばしば遊山旅行に出かけ、熊野参詣(さんけい)は10か月に一度という頻度でした。その途次で催された歌会の懐紙が熊野懐紙とよばれて伝存しています。

建仁3年(1203年)の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記しています(『明月記』建久3年1月13日条)。

また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注ぎました。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」(『明月記』建暦元年8月6日条)と評しています。その後、源千幡が3代将軍になると、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定め(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)、実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきたことから、朝幕関係は一時安定期を迎えますが、建保7年(1219年)に実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、宮将軍も上皇の拒絶にあいました。

承久元年(1219年)、内裏守護である源頼茂が在京御家人に襲われて内裏の仁寿殿に籠って討死を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失しました。この原因については頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や、頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからなど諸説あります。

上皇は堀川通具を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課しました。だが、東国の地頭たちはこれを拒絶したため、最終的には西国からの費用で再建されることになりました(ただし、その背景として朝幕関係の悪化があったのか、朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのかについては不明)。

この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなりました

なお、翌年の「承久の乱」に関係するのか、前年の藤原定家への勅勘(出仕差し止め)、前年から当年にかけて熊野詣をしており、摂津の南境の止止呂支比売命神社西北に行宮跡が残されています。

(4)承久の乱

承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して「承久の乱」を起こしましたが、幕府の大軍に完敗しました。

わずか2ヵ月あとの7月9日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流されました。父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷りました。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流されました。

さらに、在位わずか3ヵ月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王(後堀河天皇)が皇位に就き、その父で皇位を践んでいない守貞親王(後高倉院)が院政を敷きました。

(5)崩御

後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となりました。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案しましたが、北条泰時は受け入れませんでした。

四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、配所にて崩御しました。享年60。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られました。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなりました。ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もあります。

後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされました。

3.後鳥羽上皇(後鳥羽院)に対する評価

(1)後世の評価

後白河法皇の崩御後は自ら親政および院政を行いましたが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立て、その子孫に皇位継承させたことには、貴族社会だけでなく他の親王たちからの不満も買いました。また「三種の神器」を欠いた即位の経緯も不評を買いました。

専制的な暴政」や「無謀な挙兵計画」に対しては、院の側近以外の貴族たちは冷ややかな対応に終始しました。このため、「承久の乱」後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などはいずれも、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と手厳しいものでした。

寛元2年(1244年)には後鳥羽上皇の追善八講が公家沙汰(朝廷主催の行事)に格上され、宝治2年(1248年)には後嵯峨上皇が後鳥羽上皇が定制化したものの「承久の乱」で中絶した院御所最勝講を先例として復活させました。

これは、土御門天皇系の後嵯峨上皇(天皇)が皇位継承を巡って緊張関係にあった順徳天皇系の忠成王(仲恭天皇の弟)に対抗するために、土御門系が後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者であることを主張する必要があり、その前提として後鳥羽上皇の名誉回復を進める必要があったためです。これは、忠成王支持派を抑えて後嵯峨天皇即位を強行した鎌倉幕府の暗黙の了承の上での行為でした。

もっとも、後鳥羽上皇の崩御後に追善八講を行って来た修明門院(忠成王は彼女に養育されていた)はこの方針に反発し、修明門院が薨去する文永元年(1264年)まで、法要の主導権を巡る両者の対立が続きました。

一方、鎌倉幕府滅亡後には、歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まりました。『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調しています。

(2)歌人としての評価

後鳥羽院・百人一首

百人一首には、後鳥羽院の次の歌が載っています。

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

現代語訳:人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、(歎かわしいことではあるが) それと言うのも、この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。

後鳥羽院は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えています。

院がいつごろから歌作に興味を持ち始めたかは明確ではありませんが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになりました。

院は当初から、当時「新儀非拠達磨歌(しんぎひきょのだるまうた)」(*)と揶揄されていた「九条家歌壇」、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていました。

(*)「新儀非拠達磨歌」とは、「前からあるものを無視して道理に合わないことばかり詠んでいる禅宗 のような和歌」という意味です。

正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王・九条良経・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆ら、九条家歌壇の「御子左家(みこひだりけ)」(*)系の歌人に詠進を求めています。

(*)「御子左家」とは、御堂(みどう)関白藤原道長の六男の権大納言(ごんだいなごん)長家を祖とする家系の称です。長家が醍醐(だいご)天皇の御子(みこ)、左大臣兼明(かねあきら)親王邸を伝領したことに由来します。平安末期に六条家の清輔(きよすけ)・顕昭(けんしょう)に拮抗(きっこう)した俊成以降、定家・為家と連続して勅撰集撰者となり歌壇の中心的指導者となったところから、歌道師範家としての「御子左家」の権威が確立しました。

この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩していきます。同年8月以降、正治後度百首和歌を召します。対象となった歌人は飛鳥井雅経・源具親・鴨長明・後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人です。

この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となります。

2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興します。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)です。

またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰しました。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画でしたが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持ちます。

さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進が始まりました。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっています。

また、室町時代の皇族貞成親王(後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されています。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反して銭を賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されています。

4.「怨霊(おんりょう)」としての後鳥羽院

配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記しました。

また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、怨霊と化したと見られていました。

顕徳院から後鳥羽院への追号の変更はそうした怨霊説の払拭の意味もあったと考えられていますが、別の角度からの見方として怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた順徳天皇系による皇位継承には有利な言説で、土御門天皇系である後嵯峨天皇の即位に対する批判の根拠に成り得たからとする説もあります。

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