「南北朝時代」があったことから、天皇家は「万世一系」ではなかったことは戦後の教育を受けた人であれば誰でも知っています。
ただ、「南朝」の後醍醐天皇が足利尊氏と対立抗争の末に敗れた後は「北朝」の天皇が跡を継いだはずなのに、後醍醐天皇に忠義を尽くして湊川の戦で討死した「楠木正成の銅像」(冒頭の画像)が皇居前広場に立っているのは奇妙な話です。
これは、明治天皇が何を勘違いしたのか「自分は南朝方である」と発言したことからのようです。
このほか「南朝の末裔である大室寅之祐という人物が、本来皇位に就くべき北朝系統の人物に代わって明治天皇にすり替った」という話もあります。真偽のほどは藪の中ですが・・・
また戦後に、熊沢寛道という人物が「南朝の皇統を継ぐ熊沢天皇」として現れ、新聞各紙が大々的に報道したため、GHQは最初「天皇家の本家争い」と勘違いしたという話があります。
ところで「万世一系」と明記した大日本帝国憲法下の戦前には、「南朝と北朝のどちらの皇統が正統か?」をめぐって「南北朝正閏(せいじゅん)問題」があり、「南北朝正閏論争」が行われました。
1.「南北朝正閏問題」とは
「南北朝時代」以降の近世以来、「南北朝のいずれが正統か?」をめぐって、「南北朝正閏論」が行われて来ました。
論者の主張は次の四つに分かれます。
①南朝正統論
②北朝正統論
③両統対立論
④両統並立論
私は歴史を客観的に見れば、どちらかが正統ということはなく、院政に固執し続けた後嵯峨上皇が次の天皇をどちらの系統にするか決めずに崩御したため、二つの系統の天皇が対立して存在することになり、当初は鎌倉幕府の指示により交互に天皇に即位する「両統迭立(てつりつ)」時代を経て、「建武の新政」を行った「南朝」の後醍醐天皇が、その後足利尊氏と対立抗争の末に敗れて、その後は「北朝」の天皇が跡を継いだというのが真相だと思います。
2.近代以前の南北朝正閏論
(1)北畠親房の「神皇正統記」
最初の「南朝正統論」の主張は、南北朝時代に南朝の重臣であった北畠親房(1293年~1354年)が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」です。
この「神皇正統記」は1339年に書き始められ、1343年に完成しています。慈円の「愚管抄」と並ぶ中世日本の最も重要な歴史書で、「大日本史」を編纂した徳川光圀をはじめ、山鹿素行・新井白石・頼山陽ら後世の代表的な歴史家・思想家に大きな影響を与えました。
(2)北朝による「南北朝合一」
1392年に「南朝」の後亀山天皇が、吉野から京の大覚寺に入り、「三種の神器」が「北朝」の後小松天皇に引き渡され、「南北朝合一」が成立しました。
北朝では、「光厳天皇の皇統こそ正統」という立場であり、南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の3代の天皇は、「謀反人である南方偽主」に過ぎず、天皇でもない後亀山が「行幸」の体裁で入京したことにも反発がありました。
(3)壬生晴富の「続神皇正統記」
後土御門天皇の時代になって、壬生晴富(1422年~1497年)が、北畠親房の「神皇正統記」に反駁する形で「続神皇正統記」を著しました。1472年から1482年にかけて執筆したと推定されています。
彼は、「神皇正統記」が嫡流を重んじながら後嵯峨天皇以後になって突然「正理」論を持ち出して弟系の大覚寺統、しかもその傍流に過ぎない後醍醐天皇の系統(南朝)を正統な皇統としていることを強く批判し、「持明院統(北朝)こそが後嵯峨院正嫡の御流」と主張しました。
(4)徳川光圀(水戸光圀)の「大日本史」
水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸光圀)(1628年~1701年)は、「三種の神器」の所在などを理由に南朝を正統として扱いました。
その際、北朝の天皇の扱いについても議論となり、当初北朝の天皇を「偽主」として列伝で扱う方針でしたが、現在の皇室との関係もあって、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めました。
しかし、光圀が生前に望んでいた「大日本史」の朝廷献上は困難を極めました。1720年に水戸藩から「大日本史」の献上を受けた8代将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非を問い合わせました。
当時博識として知られた権大納言一条兼香(1693年~1751年)はこの問い合わせに驚き、「北朝正統」をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討しています。
この議論は10年余り続いた末に、朝廷は1731年になって「現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答」を幕府に行いました。
しかし吉宗は同書を惜しんで、3年後に独断で刊行を許可しています。これを朝廷が受け取ったのは実に69年後の1810年のことでした。
なお、光圀の「南朝正統論」は水戸藩の「水戸学」に引き継がれました。
(5)山崎闇斎と頼山陽も「南朝正統論」
儒学者の山崎闇斎(1619年~1682年)も「南朝正統論」に基づく史書編纂を計画していましたが、執筆前に亡くなりました。
歴史家・漢詩人の頼山陽(1781年~1832年)は「南朝正統論」に基づいて「日本外史」を著し、尊王論を鼓舞しました。
(6)成島司直と鹿持雅澄の「両統並立論」
儒学者の成島司直(1778年~1862年)の「南山史」や国学者の鹿持雅澄(1791年~1858年)の「日本外史評」は「両統並立論」です。
3.明治時代から戦前までの「南北朝正閏問題」
(1)明治維新による「南朝」に対する取扱いの変化
明治維新によって、「北朝正統論」を奉じてきた公家による朝廷から、「南朝正統論」の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移ると、旧来の皇室祭祀のあり方に対する批判が現れました。
これに伴って1869年の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興などが行われるようになりました。
(2)歴史学界の実証的研究と「国定教科書」改訂
一方、歴史学界では、南北朝時代に関して「太平記」の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究が行われました。
これに基づいて、小学校で使用される最初の「国定教科書」(1903年)も1906年の改訂でも、「両統並立論」に基づいて書かれていました。
歴史学界では、並立説で三上参次、北朝正統で吉田東伍、南朝正統で黒板勝美らが論戦しました。
(3)「南北朝正閏問題」が「政治問題」化
ところが1910年の国定教科書改訂にあたって、これが「政治問題」化し始め、大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水の発言がこれに拍車をかけました。
当初、首相の桂太郎は「学者の説は自在に任せ置く考えなり」として、政治的な介入は行わない意向でした。
しかし政治問題化の火付け役となったのは読売新聞で、1911年1月19日付け社説で、「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て、真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」と主張しました。
さらに政府との対決姿勢を鮮明にする犬養毅率いる野党「立憲国民党」が、この問題を利用して、第二次桂内閣の糾弾・打倒を図ったことで、南北朝のどちらの皇統が正統であるかをめぐる「帝国議会での政治論争」(南北朝正閏論争)にまで発展しました。
1911年2月の帝国議会で衆議院議員・藤沢元造がこの問題を追及する質問書を政府に提出しました。
藤沢は議員辞職に追い込まれましたが、政府は野党の懐柔工作に失敗して窮地に追い込まれ、第二次桂内閣は「南朝正統」を閣議決定し、「並立説」を採用していた文部省の国定教科書の編者で歴史学者の喜田貞吉(1871年~1939年)(下の画像)を休職処分とし、「南北朝」の項は「吉野朝」に変えられました。
4.戦後の南北朝時代をめぐる議論
第二次大戦後は、歴史学界では歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流となりました。
ただし、宮内庁をはじめとして、「天皇の代数」は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになります。