忠臣蔵の四十七士銘々伝(その1)赤埴源蔵重賢は講談の「赤垣源蔵 徳利の別れ」で有名

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赤埴源蔵

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.赤埴源蔵重賢とは

赤埴源蔵重賢

赤埴重賢(あかばね/あかはに しげかた)(1669年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は源蔵(げんぞう)です。変名は高畠源野右衛門・高林源野右衛門。家紋は鱗内星。

鱗内星

独身で、寡黙な性格。仮寓の江戸・芝浜松町で矢田五郎右衛門助武と同居。

「仮名手本忠臣蔵」では赤垣源蔵(あかがきげんぞう)。

2.赤埴源蔵重賢の生涯

父は龍野藩士塩山十左衛門で、母は高野忠左衛門の娘です。

赤穂藩士赤埴氏の養子となって浅野長矩に仕え、馬廻(江戸詰)(200石)を勤めました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となりました。

重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏して個人で吉良義央への復讐を狙っていました。

元禄15年(1702年)7月、大石良雄が京都円山会議で仇討ちを決定しました。大石は江戸に下り、吉良屋敷討ち入りは12月14日夜に決まりました。

史実では、兄はおらず弟と妹がおり、赤埴は元禄15年12月12日に妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣・田村縫右衛門のもとを訪ねています。その日赤埴が普段より着飾ってたことに関して縫右衛門の父から苦言を呈されましたが、重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去しました。

吉良屋敷への討ち入りでは裏門隊に属して戦いました。この時、菅谷政利と屋内に討ち入り、小者の着物を着た男と出会い見逃しますが、後にこの男が吉良家の家老・斎藤宮内と知り大いに悔やんだということです。

武林唯七隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷にお預けとなりました

細川家の『堀内伝右衛門覚書』には、討ち入りでは特筆すべき活躍はないと記されています。 元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、同志とともに切腹しました。享年35

戒名は、刃廣忠劔信士で、泉岳寺に埋葬されました。

3.赤埴源蔵重賢にまつわるエピソード

後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれます

赤垣源蔵徳利の別れ

討ち入りの前夜に兄・塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ね不在だったため兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、これを兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」(上の写真)の場面として描かれるようになりました。しかし実際には重賢に兄はおらず、実際は下戸で甘党であったといわれます。

討ち入りから百三十年後の天保年間に「徳利の別れ」として講談(講談師一立齋文庫脚色)や為永春水の「正史實伝伊呂波文庫」で大酒飲みに仕立てられて広まりました。

<講談『赤穂義士銘々伝~赤垣源蔵 徳利の別れ』あらすじ>

元禄15年12月14日、赤穂義士の面々は昼間のうちに集まって、討入りの手筈を整えた後、西へ東へ散り散りになる。

雪の降る中、浪士の一人である赤垣源蔵重賢(あかがきげんぞうよしかた)は、播州龍野の城主、脇坂淡路守の家来になっている兄の塩山伊左衛門(いざえもん)の屋敷にさりげなく別れを告げに訪れる。手にはごく粗末な貧乏徳利を携えている。

しかし伊左衛門は所要のため留守である。屋敷には妻がいるが酒飲みの源蔵を嫌い、癪(しゃく)の病と偽って出て来ようとしない。代わって女中の竹が相手になる。源蔵は兄のために持ってきたはずの酒を飲むと言い、竹は呆れる。

源蔵は竹にいつも兄が着ている羽織を持ってきて欲しいと言う。いつも兄が座っている場所にその羽織を吊るし、そこへ源蔵は酒を差し出す。源蔵は一人で、まるで兄を相手にしているように、父親や母親の思い出話を語る。不思議がる竹に、源蔵は今日、暇乞いに来た事を話す。西国のとある大名にお召し抱えになり、明朝江戸を出立すると言う。この屋敷を見るのもこれまでかと、雪の中、源蔵は去る。

兄の伊左衛門が屋敷に戻ってきた。妻は留守中、源蔵が訪ねて来たことを伝え、竹が相手にしたと言う。竹は源蔵の様子を話す。源蔵が「さる西国の大名」に仕官をしたと聞いて、浅野様のことはどう思っているのかと伊左衛門は訝しがる。酒ばかり飲んでいるような源蔵であったが、決して侍の魂を忘れるような者ではないと見抜いていた。

その夜、伊左衛門はどうにも寝付けない。ウトウトとした夜明け、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをし、見事吉良の首を取ったことを知らされる。昨日の源蔵の言葉を思い出し、その浪士の中に源蔵がいるに違いないと伊左衛門は確信する。

赤穂浪士の中に源蔵がいるか、中間の者を仙台様の屋敷の前まで行かせる。屋敷の前は一目みようと物凄い人だかりである。「浅野の知り合いだ」と言って前へ出ると、そこに源蔵の姿はあった。皆には「恥ずかしからぬ働きをした」と伝えてくだされ、義姉には癪によく効くという薬を渡してくれと言い、さらにその方どもで分けてくれと5両の金を与え、また吉良を見つけた時に吹いた呼子の笛を渡した。「昨日お会いできなかったが残念だった」と兄上に伝えてくれ、こう言い残して、源蔵は赤穂浪士の列に戻った。

伊左衛門の屋敷に戻った中間は、源蔵と話した子細を伝える。脇坂の殿様は源蔵が持ってきた徳利をみたいというので、伊左衛門は桐の箱に入れて献上する。「徳利の口よりそれと言わねども昔思えば涙こぼるる」。

また、討ち入りに際して、引き上げの時に、火事にならぬよう吉良屋敷の火の始末をしたという話が作られています。

しかし史実では、赤埴ら裏門組は小者の襟首つかんで引据え、「生命が惜しけりゃ蝋燭を出せ」と脅し、使用後の蝋燭はそのまま放置したり追手が来ないよう倒したりして引き上げています

4.『赤穂義士銘々伝~源蔵婿入り・赤垣の南瓜娘』あらすじ

赤穂浪士四十七士のひとり赤垣源蔵は婿入りしてからの名で、元は塩山源蔵という。赤垣重代(じゅうだい)は播州赤穂5万3千石、浅野家の家臣で150石を頂いている。「おとく」という一人娘がおり、いつかは養子を迎えなければならない。しかし背が低く小太りで器量もいいとは言えない。周囲の者からは「赤垣のかぼちゃ娘」と呼ばれている。親は女一通りのことは教え武芸も習わせたが、なかなか婿の来手が見つからない。歳はすでに23歳。昔の23歳といえば、子供が2~3人いてもおかしくない歳である。親の期待に応えられず、おとくは引きこもりがちである。

三月になり、桜の花が見ごろの時季である。両親も花見にいくように勧め、おとくは顔を見られぬよう「かつぎ」という薄い絹を被り、下郎を一人連れて屋敷を出る。花を見終わって帰ろうとしていた時のこと。向こうの方から酒に酔った浪人者3人が歩いてくる。「向こうから可愛い女が来たぞ」と言っておとくの「かつぎ」をサッと払う。ふつうの娘なら「あれェ」と声をあげるところだが、おとくは武芸の心得がある。「無礼者!」と言って、パーンと扇子で手をはたく。「こいつめ」、浪人者の一人はおとくに襲い掛かってくる。おとくは手を逆手に取り、浪人者を投げる。

浪人者のまた一人が刀を抜く。おとくの供をしていた下郎は逃げてしまった。周りの者たちも誰一人、おとくを助けようとしない。もはやこれまでと思ったおとく。この時に武者修行帰りの若侍が通りかかり、おとくと浪人者の間に入る。「おのれ、邪魔者」、浪人者はこの若侍に斬りかかる。すると若侍は手刀で打ち付け、浪人者は刀をポロリと落とす。「拙者が相手にいたすぞ」、若侍は浪人者を投げつける。「おのれ、覚えておれ」、3人の浪人者はスタスタスタと逃げる。「お女中、怪我はござらんか」、「はい、お名前を伺ってもよいでしょうか」、「拙者は播州・龍野脇坂淡路守の家来で塩山源蔵と申す者です。一緒にまいりましょう」。

下郎の方は、屋敷に飛び込みおとくが浪人者に襲われていることを重代に話す。重代は馬に乗りすぐさまおとくの元に駆け付ける。そこで一人の若侍に連れられたおとくと鉢合わせする。おとくは「このお方に助けていただきました」という。「これで私のお役目は終わりました」と言って若侍は去っていく。「いやぁ、立派なお方だ」、重代は感心する。

それからおとくは屋敷のなかでなんとなく沈んでいる。ひと月もの間、自分の部屋でジッとなにかを考えている。ときにはポロポロと涙を流し、食事も喉を通らない。重代も心配していると、妻はいう。おとくはこの前知り合った塩山源蔵様を婿に迎えたいと思っている、しかしそれが叶わず気鬱になっているのだ。

なんとかしてあの塩山源蔵を婿にしたいと思った重代は、刀屋の与兵衛を呼ぶ。与兵衛は近隣の大名からも広く仕事を引き受けている。与兵衛は脇坂様のお屋敷にも出入りしており、塩山源蔵も知っているという。3年間修業の旅に出て、剣術の腕も相当に上がっている、両親を亡くして今は兄と2人のみ、家は兄が継ぐことになり、婿に来てもらいたいという要望があちこちから来ているという。重代は、「それなら赤穂に来てもらえないか」という。与兵衛は「龍野と赤穂ならすぐ近くなので良いでしょう」と答える。重代がその相手とは自分の娘だというと、与兵衛は「あのかぼちゃ娘!」と驚く。重代は話がうまくまとまれば50両、まとまらなくても10両という金を与兵衛に与えるという。それなら、なんとか話をつけましょう、与兵衛は喜ぶ。

与兵衛は源蔵の兄である塩山伊左衛門の屋敷を訪れ、源蔵の婿入りの件について尋ねる。相手は赤穂の方、家は150石、歳は二十うん歳、背は低い。この春に源蔵と出会い、食事が喉を通らないほど恋をしていると語る。伊左衛門は源蔵を呼び出した。源蔵は異存はないという。実は源蔵もおとくと出会った時から、このような娘を妻にしたいと思っていたという。この先トントン拍子に話は進み、源蔵は赤垣家に婿養子に入り、浅野家に仕えるようになった。それから何年か経ち、赤垣源蔵は赤穂四十七士の中に加わり、主君の無念を晴らすことになるのである。

5.赤埴源蔵重賢の辞世・遺言

辞世は無し。

遺言:切腹の前に「土屋相模守様御内に本間安兵衛と申すものが有之、これへ今日快く切腹いたした旨をお伝え下されたい」と依頼しています。(堀内伝右衛門覚書)

5.四十七士は上野介の顔を知らなかったという事実

意外といえば意外ですが、内蔵助以下誰一人として、討入り前に討つべき相手の顔を見たことがありませんでした。人づてに似顔絵などは描いていたかもしれませんが、遠目にも目撃していません。

吉良邸探索には相当の努力をしながら、肝心の仇の顔を知らないまま討入っているわけです。今日では考えられないことですが、上野介が外出するとき、必ず屋敷の門内から駕籠に乗っていたのであれば、顔の確認ができなかったのも仕方がありません。

顔を見知っていたと思われる浅野家江戸詰めの家老たちが、早々と脱落していたことも一因です。従って、義士たちは斬り合いながら「上野介らしき顔」を探し、眉間と背中の傷跡を唯一のよりどころとするほかなかったのです。

6.(蛇足)『赤穂義士外伝~梶川与惣兵衛』あらすじ

『梶川の屏風回し』などの演題が使われることもあります。

梶川頼照(かじかわよりてる:通称・与惣兵衛)(1647年~1723年)は徳川家に仕える旗本であり、元禄14年(1701年)年3月14日、江戸城殿中にて浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ際には、内匠頭を取り押さえました。

この手柄で19日には500石の加増になっています。またこの刃傷事件の詳細を『梶川日記』に書き残しています。

浅野内匠頭が積もる遺恨を晴らす機会を邪魔建てしたとして、講談ではよい人物とされていません。

元禄14年3月14日、場所は江戸城御本丸の『松の廊下』。積もる遺恨から、播州赤穂の城主5万3千石の浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に刃傷に及ぶ。斬りかかったものの、金輪の入っている烏帽子をかぶっていたので刃が頭に届かない。上野介はその場から逃げだそうとする。内匠頭は続いて背中をに斬りかかり鮮血が流れるが、上野介に致命傷は与えられない。

折しもこの松の廊下を通行していたのが700石を頂戴する旗本、梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)。大力無双の梶川は内匠頭の後ろへ廻り込み、がっちりと羽交い絞めにし「お場所柄であるぞ控え」と叫ぶ。内匠頭は「どなた様かは存ぜぬが、武士の情け、その手をお放し下され」と涙を流して懇願するが、梶川は放さず、内匠頭はそのまま捕らえられる。内匠頭は即日のご切腹となり、赤穂のお家は断絶となる。一方、上野介への処分はない。

それから1年10ヶ月経った元禄15年12月14日、大石内蔵助(くらのすけ)をはじめとする赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討ち入りし、上野介の首を取って見事に本懐を遂げる。江戸の町は興奮冷めやらぬ中、松の廊下にて吉良の命を救った廉で御公儀より梶川与惣兵衛は500石のご加増になる。与惣兵衛は大喜びである。このままいけば長崎奉行になれるかも知れない。与惣兵衛は世話を受けた老中の方々へお礼をしに出掛ける。

まず初めに訪ねたのが老中筆頭の秋元但馬守の邸である。奥の座敷に通され、但馬守が現われる。てっきり与惣兵衛は自らの武勇が褒められるのかと思ったが、但馬守は源頼朝公の富士の巻狩の屏風を見せる。「この沢山の人物の中で、一人だけ花も実もある情けが分かる者がいるが誰か分かるか」と言う。与惣兵衛は言い当てられない。それは御所五郎丸(ごしょのごろうまる)であると但馬守は答える。但馬守は『曽我物語』を滔々と語り始める。武士ならば当然に曽我物語くらいは知っている。まだこれから立ち寄る先があるのにと与惣兵衛は困り果てるが仕方なく聞いている。

曽我兄弟はいよいよ仇、工藤祐経(くどうすけつね)を討ち本懐を遂げようという夜、見回りの御所五郎丸と出会う。五郎丸は曽我兄弟のことを良く知っている。兄弟の目的を察知した五郎丸は2人を見逃して仇討ち大望を叶えさせる。兄の十郎は討ち取られ、仇討ちを果たした曽我五郎はこの人に功名を立てさせようと五郎丸のお縄に掛かる。

御所五郎丸こそ花も実もある武士ではないか。それに引き換え、哀訴嘆願する浅野内匠頭を解き放たず、望みを叶えさせなかった梶川は人の情けがない、そのような奴は大嫌いだ、屋敷にはもう来るなと罵倒される。

長々と曽我物語を聞かされた上に出入留めになってしまった梶川与惣兵衛。しょんぼりして次の老中、土屋相模守の邸に向かう。ニコニコしながら相模守は出て来て、是非見て貰いたいものがあると言う。次の間に秋元公の邸にあったのと全く同じ富士の巻狩の屏風がある。相模守もまた御所五郎丸こそ花も実もある武士ではないかと言い、お前のような奴は見たくもないと怒鳴りつける。ウヘッーと退散する与惣兵衛。

ひき続いて、与惣兵衛は同じく老中の稲葉丹後守の邸を訪ねる。恐る恐る見回すと、やはり次の間に同じ屏風がある。また同じお小言を食らうに違いない。帰ろうとすると丹波守の家来がつかつかと駆け寄ってきて与惣兵衛に組み付く。「お離しくだされ」「なぜ殿に会わないうちに帰りなさる」これでは話がアベコベである。

ふだんから自分のことを可愛がってくれた小笠原佐渡守なら大丈夫だろう。部屋に通されたが、いい具合に例の屏風は無い。「ああ、良かった」と安堵したが、いつまで経っても佐渡守が姿を現さない。たまりかねて家来に聴くと、富士の巻狩の屏風が届くのを待っていると言う。ウワッーと驚いた与惣兵衛。どこの邸にも同じ屏風があると思ったら、グルグルと回っていたのだ。

こう方々から睨まれていては堪らない。与惣兵衛は倅に代を譲り、自らは隠居したという。