大河ドラマ「どうする家康」に登場する鳥居忠吉とは?松平家当主3代に仕えた忠臣。

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鳥居忠吉

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、イッセー尾形さん(冒頭の画像)が演じることになった鳥居忠吉がどういう人物だったのか大変興味があります。第1回の「桶狭間の戦い」から、イッセー尾形さんがいい味の演技を見せています。

そこで今回は、鳥居忠吉についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.鳥居忠吉とは

鳥居忠吉

鳥居忠吉(とりい ただよし)(生年不詳~1572年)は、戦国時代の武将。三河松平氏(徳川氏)の家臣。三河碧海郡渡城主。

彼は、安祥松平家」当主3代に仕えた忠臣で、後に天下を取ることになる松平元康(後の徳川家康)にも迷うことなく仕え、松平家の家臣団を取りまとめました。また、彼は水運事業を営む経済人でもあったため、蓄財に励み、経済的にも徳川家康を支えたのです。

2.鳥居忠吉の生涯

鳥居忠吉

(1)松平家当主3代に仕えた忠臣

鳥居忠吉は、三河国の渡城(わたりじょう:愛知県岡崎市にあったとされる城)の城主・鳥居忠明(とりいただはる)(生没年不詳)の子として生まれ、徳川家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)(1511年~1535年)に仕えていました。

松平清康が討たれたのちは、徳川家康の父で、当時10歳だった松平広忠(まつだいらひろただ)(1526年~1549年)に仕えます。

幼い松平広忠は、駿河国(現在の静岡県東部及び中部)の名門・今川氏の傘下に入り、鳥居忠吉もこれに従いました。そして松平広忠亡きあとは、その子・松平竹千代(まつだいらたけちよ:徳川家康の幼名)を主君としたのです。

鳥居忠吉は、主家の松平家が今川氏の傘下にあった時期には、今川義元(いまがわよしもと)(15919年~1560年)の配下として、1549年(天文18年)の安祥城(あんじょうじょう:愛知県安城市)侵攻に参戦。安祥城の城代で、織田信長(1534年~1582年)の異母兄である織田信広(おだのぶひろ)(生年不詳~1572年)を生け捕りにする活躍をしています。

(2)徳川家康の帰還に備えて蓄財

幼少期の徳川家康が、今川家の人質になり駿府(現在の静岡県葵区付近)に預けられていた間、鳥居忠吉は徳川家康の国元である三河国(現在の愛知県西部)の統治を担当していました。そして、徳川家康が帰還するまで、困窮していた松平家の財政改善に励んでいたのです。

鳥居忠吉は、武士のかたわら商いも手がけており、私財がありました。このため人質として暮らしていた徳川家康に衣類や食料を送り続け、また駿府へ出向いて徳川家康を励ますこともあったのです。

(3)勇敢で忠誠心の厚い「三河武士」を育てる

松平家の家臣団は、幼い領主・徳川家康を人質に取られ、常に近隣国からの侵攻の危機にされされていましたが、戦となれば鳥居忠吉のもとで結束を固め徳川家康への強い忠誠心から勇猛に闘ったので「三河武士」として名を馳せるようになります。

1560年(永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」で、松平家の家臣団は、徳川家康が身を寄せる今川義元の軍に加勢しました。

鳥居忠吉も馬廻(うままわり:大将の馬の周りで護衛や伝令を行う親衛隊)として馳せ参じました。この戦いで今川義元が織田信長に討たれたことで、徳川家康は今川家の人質を解かれて岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還しました。

このとき鳥居忠吉は、これまでに蓄えた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と徳川家康を大いに感激させたと言われています。

忠吉が忠義の老臣であることは朝廷にも知られており、1569年(永禄12年)11月に開かれた後奈良天皇の十三回忌に際して朝廷に献金を行った家康に対して正親町天皇が賞された際に、山科言継がそのことを特に鳥居伊賀入道(忠吉)へ書状にて知らせたことが『言継卿記』に記されています。

鳥居忠吉は、晩年も徳川家康のために尽くし続け、1572年(元亀3年)に死去しました。墓所は、次男・本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)。

正確な年齢は不明ですが、80余歳だったと言われています。徳川家康が戦国武将として独り立ちし、活躍するための土台を生涯かけて作った人物だと言えるでしょう。

長男・忠宗は1547年(天文16年)の「渡の戦い」で戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、そのあとは三男で「三河武士の鑑」と称えられた鳥居元忠(とりいもとただ)(1539年~1600年)が家督を承継し、命を懸けて徳川家康が天下を取るために戦ったのです。

3.鳥居忠吉の人物像・逸話

(1)水運事業で磨かれた経済センス

鳥居家の本拠である渡城の近くには矢作川(やはぎがわ)が流れており、鳥居家は「ワタリ(渡り)」(各地へ物品を買い求め売り捌く商工業者)と呼ばれる水運事業に関わっていました。

苦難の時代に異常なほど財を蓄えていたのは忠吉が「ワタリ(渡り)」だったためではないかと推測されています。

鳥居忠吉は、困窮していた松平家の財政を立て直しましたが、この優れた経済感覚は、水運事業に携わる中で培われたと言われています。

さらに、鳥居忠吉は、水運事業で得た莫大な富を松平家の蓄えに入れました。徳川家康の天下統一を支えた資金の原資は、鳥居忠吉がこの水運事業で得た利益であったとも言われています。

こうした鳥居忠吉の忠誠心に感化され、松平家・家臣団の結束は否が応でも高まっていったのです。戦に強く、忠義な三河武士の精神を形成したのは、鳥居忠吉であったと言っても過言ではありません。

(2)経済面以外でも徳川家康を支える

幼少期に父親を亡くし、人質生活を送った徳川家康にとって、鳥居忠吉は父のような存在でした。鳥居忠吉は、自分の三男である鳥居元忠を徳川家康の側仕えとし、肩身の狭い人質暮らしを支えさせたのです。

また、経済人でもあった鳥居忠吉は、徳川家康に貨幣の扱い方なども教えました。晩年の徳川家康が、鳥居忠吉との思い出を語りながら、習った通りに貨幣を積んでいたという逸話からも、鳥居忠吉との深い絆が窺えます。

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