北条義時の3人の妻たち(姫の前・伊賀の方・阿波局)とはどんな女性だったのか?

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八重

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

前に北条義時についての記事を書きましたが、今回は彼の3人の妻たちについてご紹介したいと思います。

1.北条義時の3人の妻たちとは

鎌倉幕府第2代執権・北条義時には、正室・姫の前、継室(後妻)・伊賀の方、側室・阿波局がいました。ほかにも側室として伊佐朝政の娘などもいたようですが、詳しいことがわかりませんので、ここでは上記3人の妻たちについてご紹介したいと思います。

(1)正室・姫の前

「姫の前(ひめのまえ)」(生年不詳~1207年)は、鎌倉幕府の御家人・比企朝宗の娘で、北条義時の正室です。

男子の「北条朝時(ほうじょうともとき)(1193年~1245年)」(名越流祖)、「北条重時(ほうじょうしげとき)(1198年~1261年)」(極楽寺流祖)、女子の竹殿(たけどの)(生没年不詳)などを生みました。

源頼朝の大倉御所に勤める女官であった「姫の前」は、『吾妻鏡』に「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太(はなは)だ美麗なり」と記されており、頼朝のお気に入りで大変美しく、並ぶ者のない権勢の女房でした。義時は1年余りの間「姫の前」に恋文を送っていましたが、「姫の前」は一向になびかず、それを見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の間を取り持ったということです。

こうして建久3年(1192年)9月25日、「姫の前」は義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)義時の次男・朝時を、建久9年(1198年)三男・重時を生みました。

建仁3年(1203年)9月、「比企能員の変」が起こり、実家である比企氏が夫・義時率いる軍勢によって滅ぼされました。

『吾妻鏡』ではその後の「姫の前」の消息については不明ですが、藤原定家の『明月記』嘉禄2年(1226年)11月5日条によると「源具親の子(源輔通)は北条朝時の同母弟で、幕府から任官の推挙があった」と記しており、輔通は元久元年(1204年)生まれであることから、「姫の前」は比企の乱の直後に義時と離別して上洛し、源具親と再婚して輔通、輔時を生んだものと見られます。天福元年(1233年)に朝時の猶子となった具親の次男・源輔時も「姫の前」が生んだと見られます。

藤原定家の『明月記』承元元年(1207年)3月30日条に、前日に源具親少将の妻が死去したことが記されており、「姫の前」は再婚後3年ほどで京都にて死去したことになります。

(2)継室(後妻)・伊賀の方

「伊賀の方(いがのかた)」(生没年不詳)は、藤原秀郷流の関東の豪族・伊賀朝光の娘で、北条義時の継室(後妻)です。兄弟に伊賀光季、伊賀光宗がいます。

男子の「北条政村(ほうじょうまさむら)」(1205年~1273年)(後の第7代執権)、「北条実泰(ほうじょうさねやす)」(1208年~1263年)、時尚、後に一条実雅(いちじょうさねまさ)に嫁いだ女子などを生みました。

建仁3年(1203年)9月の「比企能員の変」の発生を受けて、義時が前妻の姫の前と離別した 後に継室となったと見られ、元久2年(1205年)6月22日に政村を出産、 承元2年(1208年)に実泰を出産しました。

貞応3年(1224年)7月、夫・義時の急死後、兄光宗と共に実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図りますが、尼将軍北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者としたことにより失敗し、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となりました(伊賀氏の変)。

子の政村は事件に連座せず、のちに7代執権となっています。8月29日、伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となりました。4か月後の12月24日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測されています。

しかし、伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分されたことのみが記されています。

そのため「伊賀氏の変」は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もあります。

なお『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で「承久の乱」の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長(そんちょう)が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせたとのことです。

(3)側室・阿波局

紛らわしいのですが、北条時政の娘で、北条政子の妹にも「阿波局」という女性がいますが、北条義時の側室・阿波局とは別人です。

「鎌倉殿の13人」では、「八重」という名前で登場し、新垣結衣さんが演じました。

彼女は伊豆の豪族・伊藤祐親の娘で、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝との間に、「千鶴御前(せんつるごぜん、生没年未詳)」(千鶴丸、春若とも言う)という男児を生みました。

確実な史料では確認できないものの、『曽我物語』『源平闘諍録』『和賀一揆次第』などに名が見える「千鶴御前」は、祖父にあたる伊東祐親の命令によって、川に沈められて殺害されたとされます。

源頼朝からの「拝領妻」とも言える側室・阿波局は、北条義時の最初の妻であり、彼との間に、「北条泰時(ほうじょうやすとき)」(1183年~1242年)(後の鎌倉幕府第3代執権)をもうけました。

徳川綱吉から「拝領妻」として飯塚染子を下賜された柳沢吉保のようなものです。

ちなみに、北条泰時は北条義時の長男で、鎌倉幕府第3代執権(在職:1224年~1242年)です。鎌倉幕府北条家の中興の祖で、1232年に「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定した人物としても有名です。



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