大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その2)天英院(煕子)VS.月光院(お喜世)

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天英院と月光院

1.天英院とは

「天英院(てんえいいん)」(1666年~1741年)は、6代将軍家宣(いえのぶ)(1662年~1712年、在職:1709年~1712年)(下の画像)の御台所(正室)です。父は関白・太政大臣の近衛基煕(このえもとひろ)、母は後水尾天皇の娘の(品宮)常子内親王で、「照姫君」と称しました。諱 は煕子(ひろこ)です。

徳川家宣

延宝7(1679)年江戸の桜田御殿に住居していた甲府城主時代の家宣と婚姻。一男一女を儲けましたが、ともに夭折しました。宝永1(1704)年家宣が5代将軍徳川綱吉の養嗣子に定まったため、江戸城「西ノ丸大奥」に入りました。

生家である近衛家との連絡は密で、朝廷に関わる幕府の方針をしばしば事前に知らせました。7代将軍徳川家継(生母月光院)没後の将軍継嗣問題では、紀伊藩主徳川吉宗を推し、吉宗就任後も厚過されました。従一位に任じられたため「一位様」とも称されます。墓所は芝増上寺。

2.月光院とは

「月光院(げっこういん)」(1685年~1752年)は、6代将軍家宣(いえのぶ)の側室で、名は輝子、通称は「お喜世(きよ)の方」、「左京の局」です。父は台東区元浅草に現在も残っている唯念寺の住職・勝田玄哲です。

宝永元年(1704年)甲斐府中藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)に仕え、1709年鍋松(なべまつ)、後の7代将軍家継(いえつぐ)(1709年~1716年、在職:1713年~1716年)を生みました。

家宣の死後、剃髪し月光院と号しました。才色兼備で知られ和漢の書物に通じており、家集に「車玉集」があります。

1714年に起きた「絵島・生島事件(えじまいくしまじけん)」(*)の絵島(1681年~1741年)は月光院の侍女です。

絵島が人気歌舞伎役者の生島を「長持ち(衣裳入れ)」(下の画像)の中に入れて大奥に忍び込ませ、逢瀬を繰り返したという俗説もあります。

長持ち・衣裳入れ

(*)「絵島・生島事件」(「絵島事件」「江島事件」とも言う)とは、将軍家継の生母月光院に仕えた年寄絵島が大奥で権威をふるい、大奥出入りの商人を利用して風紀を乱し、当時の人気歌舞伎役者生島新五郎(いくしましんごろう)(1671年~1743年)との乱行の罪で信濃国高遠に流された事件で、連坐者は1500余人にも及びました。

7代将軍家継のとき、江戸城大奥の女中絵島 (江島とも書く) が、正徳4 (1714) 年1月芝の増上寺へ参詣した帰途,山村座に立寄って芝居見物をし、役者生島新五郎と密通したという罪で、絵島は信濃高遠に、生島は三宅島にそれぞれ流刑、山村座は解散を命じられた事件です。浮世絵師懐月堂安度も伊豆大島に流罪になるなど、多くの連座者を出しました。政治的に大きな力をもった大奥の退廃を示す事件として注目されました。江島事件

「絵島・生島事件」の背後には、幼少の将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)、儒臣新井白石(あらいはくせき)らに対する、譜代(ふだい)の大名・旗本や6代将軍家宣の正室天英院らの反感があったといわれています。

つまり、「絵島・生島事件」は、間部詮房らの月光院派と詮房の失脚を狙う老中・秋元正喬らの天英院派との政治抗争の産物でもあったのです。

老中・秋元正喬は、大奥の綱紀粛正と月光院や詮房へのダメージを狙い、町奉行や評定所を総動員して証拠をかき集め、月光院の信任あつい絵島を標的にしました。

相手の歌舞伎役者・生島新五郎は拷問を受けて自白しましたが、絵島は白洲の場でも一切抗弁せず、死一等を減じての遠島(島流し)との裁決が下りましたが、月光院が減刑を嘆願したため、信州高遠(たかとお)への配流となりました。生島新五郎は三宅島への島流しとなりました。

絵島は27年間の高遠での囲み屋敷での幽閉生活の後に同地で亡くなり、生島は絵島死去の翌年に許されて江戸に戻りましたが、その翌年に死亡しました。

3.天英院(煕子)VS.月光院(お喜世)のバトル

煕子こと後の天英院は甲府藩主の夫とともに幸せに暮らしていましたが、5代将軍綱吉の後継問題がこじれ、突如、夫は家宣として第六代将軍となりました。
正室ではあるものの、そこは厳格な大奥、「お褥(しとね)御免」と言って30歳をすぎた煕子は将軍と夜を共にできません。

早速、後継問題に悩まされる中、一人の女が現れます。浅草の寺の娘で女中としてやってきたのがお喜世こと後の月光院でした。ここに世継ぎ争いを巡る壮絶な戦いが幕を開けます。

お喜世に対抗すべく、煕子はお須免という女中を使い、世継ぎになる男子を生ませます。その後にはお喜世が男子を出産します。それぞれの側に後継者候補が誕生し争いは激化します。

なぜか煕子が産ませた男子「大五郎」が突然死に見舞われます。そして、再び産ませた男子「虎吉」さえも生後二ヶ月でなくなってしまいます。これは偶然か、それとも毒殺か?

そして、将軍・家宣までもが亡くなり後継者は、お喜世の子に決まり、お喜世はまさにわが世の春を迎えました。

家宣の死後、2人は落飾し、熈子は天英院、お喜世は月光院と名を改めました。

将軍生母となり権力を欲しいままにする月光院に対し、天英院も黙ってはいませんでした。ある時、月光院派のトップ、絵島が大奥の門限を破り、役者と酒を飲んできました。

その隙を天英院は見過ごしませんでした。天英院は一挙にその事実を盾にし不正を訴えました。その結果、1,500人もの処罰者を出し、月光院派を切り崩したのでした。勢いを取り戻した天英院は次期将軍に吉宗を推し通しました。

「大奥が将軍を選ぶ」、それはまさに大奥の権力を印象付けるものでした。しかし、8代将軍となった吉宗はなんと大奥の縮小を宣言しました。

天英院(煕子)VS.月光院(お喜世)という大奥の争いが生んだ将軍によって、皮肉なことに大奥はその権威とかつての華やかさを失ったのです。

天英院は1741年に亡くなりましたが、月光院が亡くなったのは1752年です。月光院は天英院が亡くなった後、8代将軍吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、9代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたとも言われています。

ただし吉宗時代になると月光院は大奥を離れ、城内吹上御殿に移って年間8600両の報酬で暮らしたそうです。

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