大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その1)お江与の方VS.春日局

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お江与の方春日局

1.お江与の方とは

「お江与(えよ)の方」(1573年~1626年)は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠(1579年~1632年、在職:1605年~1623年)の「御台所(みだいどころ)」(正室)です。

近江小谷城主浅井長政とお市の方(織田信長の妹。小谷の方)の三女で、お茶々・初の妹です。「崇源院(すうげんいん/そうげんいん)」「江(ごう)」「小督(おごう)」「江与(えよ)」とも呼ばれます。諱は達子。

信長によって包囲された小谷城落城の際、母、二人の姉、お茶々(後の豊臣秀吉側室淀殿)、初(後の京極高次正室「常高院(じょうこういん)」)とともに脱出、信長に養われました。母の再婚によって柴田勝家(しばたかついえ)の越前北庄(きたのしょう)城に移りましたが、1583年、秀吉と対立し敗れた勝家は自害、母もそれに続いたため、姉とともに秀吉に養われることになりました。

はじめ従兄妹である尾張大野城主佐治一成に嫁ぎましたが、秀吉の意向により離別させられました。のち秀吉の養子羽柴秀勝(秀吉の甥)に嫁ぎ、一女(完子。九条幸家室)を儲けました。

秀勝没後の1595年に、秀吉の養女格として秀忠に再々嫁し、千姫をはじめ家光、忠長、和子(後の後水尾天皇の中宮「東福門院」)ら二男五女を儲けました。

次男忠長を偏愛し将軍職に就けようとしたり、秀忠が側室を持つことを許さなかったなど気性の激しさを窺わせる逸話が多いですが、必ずしも真偽は明らかではありません。没後に贈従一位。墓所は芝増上寺にあります。

2.春日局とは

「春日局(かすがのつぼね)」(本名:斎藤福)(1579年~1643年)は、3代将軍徳川家光(1604年~1651年、在職:1623年~1651年)の乳母です。「春日局」とは朝廷から下賜された称号です。

稲葉正成の妻で、息子に正勝・正定・正利がおり、養子に堀田正俊がいます。

江戸城「大奥」の礎を築いた人物で、松平信綱・柳生宗矩とともに家光を支えた「鼎の脚(かなえのあし)」の一人に数えられています。

また、朝廷との交渉の前面に立つなど当時の女性政治家として随一の存在で、徳川政権の安定化に寄与しました。

詳しいことは「斎藤利三の娘・春日局の人物と生涯とは?」という記事に書いていますので、ご一読ください。

3.お江与の方VS.春日局のバトル

家光の両親である2代将軍徳川秀忠とお江与の方が、2歳下の弟忠長を溺愛したため、家光・忠長の後継者争いが起こりました。

家光の次期将軍の座が危うくなるや、春日局は1615年に家光の疱瘡治癒祈願のための「伊勢参宮」を口実に江戸を出て、駿府の大御所・家康に直訴しました(春日の抜け参り)。その結果、家康の計らいによって家光の世嗣としての立場が確立しました。

家光の将軍就任に伴い、春日局は「将軍様御局(しょうぐんさまおつぼね)」として大御台所(おおみだいどころ)・お江与の方の下で、大奥の公務を取り仕切り、大奥で権勢を振るうようになりました。

1626年にお江与の方が亡くなると、春日局は家光の世継ぎを得させるために側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万、お蘭(お楽の方)、お振、お夏、お玉、お里佐、お昌などの女性を次々と大奥に入れました。

男色家で、女性に興味を持たない家光のために、女性を男装させて閨に入り込ませることもしたそうです。

また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど大奥を構造的に整備しました。自分が育てた将軍家光の権威を背景に、老中をも上回る実質的な権力を握りました。

一介の乳母であった春日局がなぜ家康に直訴できたり、その後「大奥」で絶大な権力を振るえるようになった理由については諸説ありますが、私は「春日局は家康の愛妾の一人で、家光は家康と春日局との間に生まれた子であった」からではないかと思います。

つまり、お江与の方VS.春日局のバトルは、一面では家康(父)と、父親の子を押し付けられた秀忠(子)との争いであり、家康の子(家光)と秀忠の子(忠長)との将軍後継者争いだったのではないかと思います。

家康の裁きによって家光の世嗣としての立場が確立して以降、徳川家では「長子相続」が慣例となりました。



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