辞世の句(その18)江戸時代・幕末 土方歳三・沖田総司・岡田以藏・新門辰五郎

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土方歳三

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第18回は、江戸時代・幕末の「辞世」です。

1.土方歳三(ひじかたとしぞう)

土方歳三・全身写真

よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂(たま)は東(あづま)の 君やまもらむ

これは「たとえ私の身が、蝦夷の地で朽ち果てようとも、魂は東にいる君を守るだろう」という意味です。

「東の君」というのは、一般的には主君である「徳川家・徳川慶喜」と考えられます。しかし実際には、故郷の家族や、恋仲だった女性、共に戦ってきた新選組の同志達のことを指しているという説もあります。

鉾(ほこ)とりて 月見るごとに おもふ哉 あすはかばねの 上に照(てる)かと

これは「鉾を手に取って月を見るたびに思う。明日は自分の屍(しかばね)の上に照るのかと」という意味です。

この辞世は自分に差し迫った死を予期したした内容であり、亡くなる前日に詠んだものとされています。

彼が亡くなる前日、旧幕府軍の幹部たちは惜別の宴を開いていました。その席で「自身が明日死ぬかもしれない」と予期して詠んだのが、この辞世の句だと言われています。

土方歳三(1835年~1869年)は、幕末期の幕臣で、新選組副長・蝦夷島政府陸軍奉行並です。

彼は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に生まれました。小さい時から乱暴者として知られ、剣を習っていた試衛館で知り合った近藤勇らと新選組(前身の浪士隊)に参加し、後に副長として活躍しました。

その後、「鳥羽伏見の戦い」から始まる「戊辰戦争」(1868年~1869年)を幕臣としてして戦ったものの、1869年6月20日、転戦先の「箱館五稜郭の防衛戦」で戦死しました。同志だった沖田総司の死から約1年後のことでした。

2.沖田総司(おきたそうじ)

動かねば 闇にへだつや 花と水

これは、花を沖田総司自身、闇を死、水を土方歳三にたとえた句で、「戦わなければ 土方さんと私は離れ離れになってしまう」という意味です。

死を恐れるのではなく、死による土方との別れを惜んだ句だと言われています。

なぜ土方歳三が「水」なのかというと、土方歳三の「豊玉発句集」にある「さしむかう 心は清き 水鏡」に対する「返歌」であるからだそうです。

沖田総司(1842年?~1868年)は、陸奥国白河藩藩士江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭・沖田勝次郎の息子(長男)として、江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)で生まれたとされています。

剣の達人として知られ、「池田屋事件」などで新選組一番隊隊長として活躍しましたが、病に倒れ、1868年7月19日に匿われていた千駄ヶ谷の植木屋で病死しました。肺結核だったと言われています。

なお土方歳三と沖田総司については、「勤王の志士に比べ幕府の犬と貶められた新選組は幕末の勤王・佐幕の対立の犠牲者」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

3.岡田以藏(おかだいぞう)

君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべし

これは「主のために尽くしてきたが、それも水の泡となってしまった。しかし、その後に残った水は澄み渡っていることだろう」という意味です。

岡田以藏(1838年~1865年)は、土佐国(現在の高知県)の郷士の子として生まれました。

「人斬り以蔵」と呼ばれ、「幕末の四大人斬り」(田中新兵衛・河上彦斎・岡田以藏・中村半次郎)の一人に数えられています。武市半平太に師事し、土佐勤王党の一員として活躍しましたが、後に捕らえられ、土佐藩参政であった吉田東洋などの暗殺に関与した者を全て自白、師であった武市半平太を巻き込む形で、1865年7月3日に打首獄門となりました。

暗殺者として武市半平太を支えた岡田以蔵が、過去行なった暗殺の自白により武市を死に追いやることになってしまったというのは因果応報と言えるのかもしれませんが、この辞世を見る限り、過去の醜い部分を含めて、自分とともにあの世に持っていくということだったのかもしれません。

4.新門辰五郎(しんもんたつごろう)

新門辰五郎

思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとじる)  ふっくりぼぼに どぶろくの味

これは「最期になってこの世に思い残すことは、鮪(まぐろ)の刺身とふぐ汁、それにふっくらした女性のぼぼに、どぶろくの味である」という意味です。

この辞世は、男気の粋な世界に生きた人間らしく、三つ目の「ふっくりぼぼ」を除いて思い出に残る食物や飲物をそのままずらずらと並べただけの歌です。

『ふっくりぼぼ』というのは女性性器の隠語で、本来詠むべきではない不謹慎な言葉ですが、それをマクロの刺身やフグ汁、どぶろくと一緒にして平気で恥じないところが、豪放磊落に生きた親分気質がよく出ています。

新門辰五郎(1800年?~1875年)は、江戸時代後期の町火消・侠客です。実父は餝(かざり)職人・中村金八で、町田仁右衛門の養子となりました。

娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室です。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門辺りの責任者であることに由来します。

娘が将軍徳川慶喜の妾になっていた縁で慶応年間(1865年~1868年)、子分300人を連れて将軍警備で京都に行きました。京都では河原町、大坂では堂島に居を構え、妾も置いて「将軍お抱えの江戸の親分」として羽振りをきかせました。

「鳥羽伏見の戦い」に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から、大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ、これを持って子分と共に陸路東海道を江戸に着きました。

慶喜が水戸に謹慎になった際は2万両の甲州金を輸送し、徳川家の駿府(静岡県)移住にも付き従い、最後まで佐幕派の義理を守りました。

なお、駿河国清水の有名な侠客であった清水次郎長(しみずのじろちょう)(1820年~1893年)とも知縁であったと伝えられています。

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