辞世の句(その15)江戸時代 徳川家康・春日局・本因坊算砂・小堀遠州・東福門院和子

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徳川家康

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第15回は、江戸時代の「辞世」です。

1.徳川家康(とくがわいえやす)

徳川家康・顰め顔

嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

これは「もう目覚めることはないと思ったが、また目覚めることができて嬉しい限りだ」という意味です。

先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行(ゆけ)ぬを 別(わかれ)とぞ思ふ 

これは「わたしは誰も殉死させたいとは思っていない。誰も後追い自殺などしてはいけないぞ」という意味です。

徳川家康が265年の太平の世の礎を築いたと言えども、まだまだ戦国時代の名残りが色濃く残っている頃に詠まれた辞世です。当時は、主君が亡くなると後を追って自害することが美徳とさえされていました。

家康は命を大切にする武将であったため、辞世を利用することで、殉死(後追い自殺)しかねない家臣たちの命を守ろうとしたのかもしれません。「代替わりの際の優秀な人材の喪失を防止する目的」もあったのでしょう。

ちなみに「殉死禁止令」は、4代将軍徳川家綱治世下で保科正之により実施されました。

徳川家康(1543年~1616年)は、言うまでもなく江戸幕府初代将軍です。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖です。旧称は松平元康(まつだいらもとやす)。

豊臣秀吉の死後に引き起こした「関ヶ原の戦い」(1600年)に勝利し、豊臣勢力を圧迫しつつ1615年には「大坂夏の陣」により豊臣氏を滅ぼし、265年間続く江戸幕府を開きました。

「(戦国)三英傑」(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の一人です。

なお、徳川家康の健康法については「戦国武将の健康法。利家の能トレと秀吉の茶リラックスと家康の粗食」という記事を書いていますので、ぜひご覧ください。

2.春日局(かすがのつぼね)

春日局

西に入る 月を誘(いざな)ひ 法(のり)を得て 今日ぞ火宅を のがれけるかな

これは「西の方へ没していく月を心に留めながら、仏の教えに従い、やっと今日悩み多いこの世から逃れることができます」という意味です。

「火宅」は、仏教用語で、煩悩や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた言葉です。当時の女性としては異例の出世をとげた春日局ですが、その半生は波瀾万丈なものでした。

父・斎藤利三は優秀な武士であり、明智城下で何不自由のない幼少期をすごしました。しかし、「本能寺の変」で、明智光秀が謀反を起こすと、続く「山崎の合戦」で、利三は絶命。家長を失った家族は、金銭的に苦しく、また裏切り者との汚名を帯びた一家は、極貧のどん底を経験しました。

春日局(1579年~1643年)は、父は美濃国の名族斎藤氏の一族で明智光秀の重臣・斎藤利三の娘で江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母です。

江戸城「大奥」の礎を築いた人物で、朝廷と徳川家をつなぐ役目を担い、天皇に謁見するため、特別な位と名前を朝廷から賜ります。「春日局」とは、そのとき朝廷から賜った称号です。

近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与したと評価されています。

なお春日局については「斎藤利三の娘・春日局の人物と生涯とは?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

なお、この記事では「春日局は家康の愛妾の一人だった」「家光は家康と春日局との間の子だった」という説を紹介しています。この説は非常に納得性・説得力があると私は思っています。

3.本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)

本因坊算砂

碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり

これは「もし囲碁であれば、死にそうな局面でも劫で粘って生きることもできるのに、自分が死ぬとなると打つ手がないものだ」という意味です。

「劫」とは、「囲碁で、一目(いちもく)を双方で交互に取りうる形の時、先方に取られたあと、すぐには取り返せない約束のため、他の急所に打って、相手がそれに応じた隙に、一目を取り返すかたちで一目を争うこと。また、その繰り返しのこと」です。

本因坊算砂(1559年~1623年)は、安土桃山時代から江戸時代の囲碁の棋士です。

顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊算砂」を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元「本因坊家の始祖」となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となりました。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。

本因坊算砂は、舞楽宗家の加納與助の子として生まれました。8歳の時に叔父で寂光寺開山・日淵に弟子入りして出家しました。仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事して囲碁を習いました。

天正6年(1578年)、織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚されたとされています。これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされることもありますが、鎌倉時代の『二中歴』 にはすでに、囲碁と雙六の「名人」についての記述があるそうです。

天正10年(1582年)、「本能寺の変」前夜に信長の御前で利玄(鹿塩利賢もしくは林利玄など諸説あり)と対局をしたところ、滅多に出来ない「三劫(さんこう)」が出来、その直後に信長が明智光秀に殺されるという事態が起こりました。これ以降「三劫は不吉」とされます。

「三劫」とは、「囲碁で、盤面に同時にコウが三か所できた状態で、どちらも譲らなければ無勝負になる形です。

ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっています。そもそも「三劫」はそこまで珍しいというものではなく、現在行われているプロの棋戦の中で年に一回くらいは起きています。

4.小堀遠州(こぼりえんしゅう)

小堀遠州

きのふといひ けふとくらして なすことも  なき身のゆめの さむるあけほの

これは「今までの人生と遣り残したこと その全ての欲を捨て去った時に 人間は人間に取って一番大切なものが何であるかと言うことを知るのだ。今までの人生と残した仕事さえ 、亡くなって逝く自分には曙の中ではかなく覚めてゆく夢のような気がする」という意味です。

この辞世は、平安時代の春道列樹(はるみちのつらき)の「昨日といひ 今日とくらして 飛鳥川  流れてはやき 月日なりけり」という和歌の「本歌取り」です。

なお、春道列樹の和歌も、詠み人知らずの「世の中は 何か常なる 飛鳥川 きのふの淵ぞ 今日は瀬になる」という和歌の「本歌取り」のようです。

小堀遠州(1579年~1647年)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名・茶人・建築家・作庭家・書家です。「遠州流(小堀遠州流)茶道の祖」です。

備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般には小堀遠州の名で知られますが、「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗りです。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改めました。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵があります。

 小堀遠州は天正7年(1579年)、長浜市小堀町に生まれ、幼少より父の英才教育を受けました。その後、千利休や古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の「茶道指南役」となりました。

5.東福門院和子(とうふくもんいんかずこ/まさこ)

東福門院和子

武蔵野の 草葉の末に 宿りしか 都の空に かへる月かげ

これは「武蔵野の草葉の末に宿るのだろうか 京の都の空に帰る月の光は 」という意味です。

東福門院和子(1607年~1678年)は、徳川秀忠の八女で、名は和子(かずこ)/(まさこ)です。

14歳で入内し,後水尾天皇の女御となり,1623年に一宮興子(いちのみやおきこ)(明正天皇)を産み、1624年中宮となりました。1629年院号宣下。

徳川氏はこれで朝廷と姻戚(いんせき)関係を初めて持ちました。なお入内と同時に女御様御付役人として禁中に武士が常駐するようになりました。

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