高村光太郎とは?詩集「智恵子抄」や「道程」で有名だが戦争協力詩も書いた!

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高村光太郎

高村光太郎と言えば、「智恵子は東京には空が無いといふ」で始まる「智恵子抄」や、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」というブルドーザーのような「道程」という詩で有名ですが、どんな人物だったのでしょうか?

今回は高村光太郎の人生を辿ってみたいと思います。

1.高村光太郎(たかむらこうたろう)とは

高村光太郎と高村光雲像

高村光太郎(1883年~1956年)は、東京出身の詩人・歌人・彫刻家・画家です。本名は「みつたろう」と読みます。

父は、上野公園の「西郷隆盛像」や皇居前広場の「楠公像」で知られる有名な彫刻家高村光雲(1852年~1934年)(下の写真)です。

高村光雲

(1)幼少期

1896年に下谷高等小学校卒業後、共立美術学館予備科に学期途中から入学し、翌年卒業しています。また幼少時に父から木彫技法を学んでいます。

(2)東京美術学校時代

彼は1897年9月に東京美術学校彫刻科に入学しました。しかし文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の「新詩社」の同人となり、「明星」に寄稿しています。

1902年に彫刻家科を卒業し、研究科に進みロダンに傾倒しましたが、1905年に西洋画科に移っています。

(3)欧米への留学

父の光雲から留学資金をもらって1906年3月からニューヨークに1年2カ月間、ロンドンに1年1カ月間、パリに1年間滞在し、1909年6月に帰国しました。

ニューヨークでの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らず」不安に悩んでいた時、メトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品と出会い感動し、彼の助手となっています。

こうして昼は働き、夜はアート・スチューデント・リーグの夜学に通って勉強しています。パリではロダンに出会い、深く傾倒しています。

世界を見て帰国した彼は、旧態依然たる日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗して東京美術学校の教職の話も断りました。

(4)絵画・彫刻・詩作などの創作活動と長沼智恵子との結婚

北原白秋らの「パンの会」(青年文芸・美術家の懇談会)に参加し、「スバル」などに美術批評を寄せています。1910に出した「緑色の太陽」は芸術の自由を宣言した評論です。また、同年神田淡路町に日本初の画廊「瑯玕洞」を開店しています。

1911年には「光雲還暦記念胸像」を制作しました。

1912年には駒込にアトリエを建てています。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品しています。

1914年には第一詩集「道程」を刊行しています。

同年、洋画家・絵本作家だった長沼智恵子(1886年~1938年)(下の画像)と結婚しています。彼女は日本女子大学を卒業した才媛ですが、画家を志し、大学の同級生だった平塚らいてうが創刊した雑誌「青鞜」の表紙絵も描いています。

高村智恵子

彼は1918年にはブロンズ塑像「手」、1926年には木彫「鯰(なまず)」を制作しています。

ところが1929年に妻の智恵子に突然の不幸が襲います。清酒「花霞」を醸造する酒造家で多数の使用人を抱える資産家であった彼女の実家が破産し、一家離散したのです。

そのショック・心労、絵画制作の行き詰まり、持病の湿性肋膜炎などいろいろな要因が重なってこの頃から彼女の精神状態が不安定になります。後に統合失調症となり、1938年に粟粒性肺結核亡くなりました。

彼は彼女の闘病中、妻の病状を和らげるを探し、「簡単な手作業がよい」という話から、千代紙を持って行き、彼女はそれを使って「紙絵」を数多く作りました。

1941年には、他界した智恵子夫人を偲んで編んだ詩集「智恵子抄」を発表しています。

(5)戦争賛美の詩を作る

智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し、「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海に否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩・愛国詩を多く発表し、「日本文学報国会」の「部会長」も務めました。

余談ですが、「日本文学報国会」の「俳句部会長」は高浜虚子でした。

1942年に与謝野晶子が亡くなった際は、彼が告別式で弔辞を読んでいます。彼女は「君死にたまふことなかれ」という反戦詩で有名ですが、彼女も晩年は戦争賛美の歌を詠んでいました。

(6)空襲の被害と戦後7年間の独居自炊生活

高村光太郎(甚平姿)

1945年4月の空襲で、アトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失しました。同年5月に岩手県花巻町(現花巻市)の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開しました。しかし宮沢家も同年8月の空襲で被災しましたが、辛うじて助かりました。

終戦後の1945年8月17日に「一億の号泣」を朝日新聞に発表しました。そして同年10月には花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送りました。

これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自責の念から出た行動だったようです。軍国歌謡を多数作曲した古関裕而の苦悩と似ていますね。

(7)「乙女の像」の制作

高村光太郎の乙女の像

1952年に青森県から十和田湖畔に建立する記念碑の制作を依頼され、これを機に小屋を出て東京都中野区のアトリエに転居して記念碑の塑像(裸婦像)を制作し、1953年に「乙女の像」として完成しました。

2.高村光太郎の代表的な詩

(1)智恵子抄「あどけない話」

智恵子は東京に空が無いといふ。

ほんとの空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

桜若葉の間に在るのは、

切っても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。

(2)道程

僕の前に道はない

僕の後ろに道はできる

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちにさせた廣大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父に氣魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため

3.高村光太郎の絵画作品

これは彼の「自画像」です。

高村光太郎自画像

4.高村光太郎の彫刻作品

これは彼の「光雲一周忌記念胸像」と、ブロンズ塑像「手」です。

高村光太郎の「高村光雲先生」像高村光太郎の「手」

下の画像は彼の木彫「鯰(なまず)」です。

高村光太郎の木彫なまず

知ってるつもり 高村光太郎





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