小宮豊隆は漱石の「三四郎」のモデルで、「夏目鏡子悪妻伝説」を広めた門下生

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小宮豊隆

夏目漱石の小説に「三四郎」「それから」「門」という「三部作」(トリロジー(trilogy))があります。これらは「前期三部作」とも呼ばれ、「後期三部作」は「彼岸過迄」「行人」「こころ」です。

(*)「三部作」(トリロジー:trilogy)とは、「三つにそれぞれ分かれていながら、同じ一つの主題を持つ作品群」のことです。

東京大学本郷キャンパスには、夏目漱石の小説「三四郎」の舞台となった「三四郎池」(下の画像)があります。東大本郷キャンパスは、江戸時代には加賀藩上屋敷だった地で、三四郎池もかつての大名庭園「育徳園」の一部です。正式名は「育徳園心字池」ですが、漱石の小説の影響で「三四郎池」と通称されるようになりました。

三四郎池2

前置きが長くなりましたが、「三四郎」のモデルとされるのが、漱石門下生の一人である小宮豊隆です。

今回は小宮豊隆についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.小宮豊隆とは

(1)小宮豊隆の生涯

小宮豊隆(こみやとよたか)(1884年~1966年)は、福岡県出身のドイツ文学者・文芸評論家・演劇評論家で、東北大学名誉教授、日本学士院会員です。

福岡県仲津郡久富村(現犀川町久富)に生まれ、1887年父・弥三郎の転勤にともない大和郡山へ移りましたが、1891年帰郷し、豊津尋常小学校に転校しています。

1894年、彼が10歳の時に父・弥三郎が亡くなりました。

旧制の福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て旧制一高(現在の東京大学教養学部)に進みました。同学年に安倍能成、中勘助、藤村操尾崎放哉岩波茂雄がいました。

1905年東京帝国大学文学部独文科に入学。従兄の犬塚武夫(いぬづかたけお)(*)の紹介で夏目漱石の知遇を得、在学中の保証人を依頼しています。大学ではドイツ語の講義とともに、漱石の「文学評論」やシェイクスピアの講義も聴講しています。

(*)犬塚武夫は、漱石の英国留学時代に同じ下宿にいて、漱石の自転車乗りの指導をした人物でもあります。犬塚は旧小倉藩主の長男・小笠原長幹(ながよし)のロンドン留学に傅役(もりやく)として同行してきていました。犬塚は、ひとり下宿の部屋に閉じ籠もるようにして勉学に没頭し、神経をすり減らしている漱石の気鬱を晴らそうと、自転車乗りを勧めたのでした。

大学時代に夏目漱石の門人となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際しました。

1908年に東大を卒業し、1909年4月に新設され慶応義塾大学文学部の講師となっています。このころから、ロシア文学への興味が深まっています。朝日新聞に文芸欄が創設され、漱石の手伝いもしています。

1916年に東京医学専門学校講師となっています。同年12月9日に漱石が死去しました。1917年には早速『漱石全集』の編集にとりかかっています。

1920年海軍大学校嘱託教授、1922年法政大学教授となり、1923年欧州に留学し、1924年東北帝国大学法文学部教授となりました。1946年に定年退官し、名誉教授となっています。

ドイツ文学者としては、慶応義塾大学文学部講師、東北帝国大学法文学部教授や図書館長を務めています。

1946年に東北帝国大学を辞してからは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校長や国語審議会委員などを歴任しました。東京音楽学校の校長時代に、森田たまの紹介で伊福部昭を作曲科講師に迎え、1949年退職。

1950年3月には当時学習院院長だった安倍能成に招聘されて、学習院女子短期大学の初代学長に就任し、1957年3月まで務めました。1951年に学士院会員となっています。

1958年には「世阿弥の芸術」を御進講しています。

1966年、肺炎のため亡くなりました。享年82。

(2)「漱石愛」が熱すぎる漱石崇拝者・信奉者

彼は夏目漱石門下の論客として活躍し、1917年に始まる『漱石全集』編纂に長く関わり、伝記『夏目漱石』等多くの優れた著作を残しています。特に伝記『夏目漱石』は、「漱石愛」が熱すぎて漱石を神格化し、鏡子夫人を「悪妻呼ばわり」するなど「贔屓の引き倒し」のような感じさえあります。

彼は漱石門下生の中でも、極端なほど漱石に心酔した漱石崇拝者・信奉者で、ご神体が漱石の「漱石神社の神主」と揶揄されたこともあります。

漱石の日記にも、よく「豊隆子(ほうりゅうし)来る」とよく登場しています。なお、俳号の逢里雨(ほうりう)は、豊隆の音読み(ほうりゅう)に別の字を宛てたものです。

(3)「夏目鏡子悪妻伝説」を広めた張本人の門下生

松岡譲が口述筆記した漱石未亡人の夏目鏡子(なつめきょうこ)(1877年~1963年)の『漱石の思ひ出』を読むと、鏡子夫人も漱石と協力して門下生の面倒(心中騒動や、お金の工面、新聞への小説連載の口添え、出版業のアドバイスなど)を結構見ており、内田百閒などの門下生から借金を踏み倒されるなどの被害も受けています。

小宮豊隆の『夏目漱石』を読むと鏡子夫人を非常に貶している記述もありますので、彼が「夏目鏡子悪妻伝説」の張本人かもしれません。

確かに鏡子夫人はお嬢様育ちのせいか家事が不得手で、朝寝坊することや、漱石に朝食を出さないまま出勤させることもしばしばだったそうです。

漱石が「お前のやっていることは不経済極まりない」と叱ると、「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多めに睡眠をとって良い心持で家事をする方が、何倍も経済的ではありませんか?」と言い返し、漱石を閉口させたそうです。

慣れない結婚生活から、ヒステリー症状を起こすこともしばしばあり、自殺未遂事件まで起こしたことがあります。これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とも言われています。

しかし漱石が英国留学後に神経症を悪化させ、鏡子や子供たちに「家庭内暴力」を振るうようになり、周囲から離婚を勧められた時は、「(漱石は)私のことが嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私たちに暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と言って、頑として受け入れなかったそうです。

漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると、「お前たちはそう言って私のことを馬鹿にするけれど、お父様(漱石)が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだよ」と亡夫を懐かしむことがしばしばだったそうです。

私などはこれを読むと、ついホロリとさせられます。

(4)漱石の旧蔵書などの遺品類を鏡子夫人の許可なく自分が勤務する東北大学へ移した

大英博物館やルーブル美術館などの欧米の著名な博物館や美術館は、帝国主義時代にイギリスやフランスなどの帝国主義列強が植民地から掠奪してきた宝物や美術品で埋め尽くされており、「泥棒博物館」「強盗博物館」などと揶揄されることがあります。

なお、小宮豊隆が勤めていた「東北大学附属図書館」には、夏目漱石の旧蔵書などを保管する漱石文庫」があります。これは彼(東北大学教授も歴任)が、漱石の旧蔵書のほとんど(洋書1650冊、和漢書1200冊)をはじめ、日記・ノート・試験問題・原稿などの自筆資料等を収集したものです。

このことについては、鏡子は「小宮が勝手に持って行った」と快く思っていなかったようです。この話が本当だとすると、スケールは違いますが「泥棒博物館」「強盗博物館」と揶揄された大英博物館やルーブル美術館と似ているように感じます。

(5)漱石による人物評

彼は、漱石の給料を銀行に取りに行ったり、原稿を新聞社に届けたりの雑用も行いました。ただ、漱石はつまらない手紙を送ってくる彼に手を焼いていたようで、明治43年(1910年)12月13日には「だれと酒を飲んだとか、だれと芸者をあげたとかいうことは一々報告してもらわないでもよい。その末に悲しいとか、すまないとかいうことはなおさら書いてもらわないでよい。余は平凡尋常の人である。凡ての出来事を平凡尋常の出来事として書いてくれる人を好む」とまで漱石は書いています。彼からくる手紙の無内容さに辟易していたようです。
 翌年の2月、漱石は入院先の長与病院から坂元雪鳥(朝日新聞社員、能楽評論家)に宛てた手紙に彼のことを書いています。
 小宮が酒を飲んだとか芸者を揚げたとかいうことを臆面なく僕の前で話すのを、僕は可愛い男と思っている、然しあまり相槌は打たない、どころか始終罵倒している、それで向うでも平気でいる、従ってこの方でも遠慮なくいえる、あれがつつみ隠しをするようになっては隅てが自然できるからああ親しくは行かない、小宮は馬鹿である、(凡ての人がある点において馬鹿である如く)、その馬鹿を僕の前で批判を恐れずに暴露している、あれは廉恥心がないというのじゃない、弱点を批評せられる未来の不便を犠牲に供して顧みないのである、僕は彼の行為飲酒その他を倫理的に推称しない、けれども敗(背)徳の行為とは認めない、ずけずけ罵倒するにも拘わらず、不徳義漢とは考えていない、あれでいいじゃないか、僕は君の凡てを知らない、君は君の凡てを僕に語らない、つまり君は僕に遠慮がある、従って僕も君には遠慮がある、そこに礼儀はあるかもしれぬが打ち解けない所もある、ここは君からみても事実だろう。(明治44年2月24日 坂元雪鳥宛て書簡)

(6)漱石の次男・夏目新六による人物評

まるで子供のように、漱石と鏡子に甘えた小宮豊隆でしたが、その遠慮のない甘えのために、漱石や家族から愛されたようです。漱石の次男の伸六は彼を次のように評価しています。
 要するに、ある意味では天真爛漫として、自分の失敗や弱点を余り人前で隠そうとしない小宮さんの生れつきが、引いては、門弟中で、誰よりも父を愛し、父からも愛されたと、自他共に許すような師弟間の親近感にまで発展し、結果的には他の御弟子連が遂に越えられなかった遠慮の壁を自然と乗り越えることができた原因だとも考えられる。つまり父の眼には、小宮さんの姿が、多少とも親父に甘える放蕩息子の如く思われたのに違いない。(父・漱石とその周辺 父と小宮豊隆さん)

2.芭蕉の俳句をめぐる斎藤茂吉との「セミの声論争」

「閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声」 これは松尾芭蕉の奥の細道に出てくる有名な俳句ですね。山形市の立石寺(りゅうしゃくじ)で詠んだものです。

この蝉は「何」蝉かを巡って、歌人で精神科医の斎藤茂吉(精神科医で随筆家の斎藤茂太さんと、精神科医で随筆家・作家の北杜夫さんの父上)と、小宮豊隆との間で2年越しの論争が起こりました。斎藤茂吉は「アブラゼミ(油蝉)」と主張し、小宮豊隆は「ニイニイゼミ」と主張したのです。

しかし、「岩にしみ入る」という表現からも、「ギィー、ジィー」と暑苦しく鳴くアブラゼミではなく、「シィーー」と静かなBGMのように鳴くニイニイゼミの蝉時雨であることは、明らかです。

結局、斎藤茂吉が誤りを認め、「ニイニイゼミ」という結論になったようです。

3.東京音楽学校での「邦楽科廃止論争」

東京音楽学校校長時代の1948年に、彼が同校の邦楽科を廃止する案を提出し、大きな論争を巻き起こしました。東京音楽学校の邦楽科は1930年に設けられていましたが、「それは国粋主義からであり、当時の校長乗杉嘉寿のゴリ押しによるものだ」という意見が学内にあり、小宮を支持する洋楽教授の中には「着物に白足袋はいて三味線をペンペンやられるのは目ざわり耳ざわりだ」と言う者まであったそうです。

これに対して、吉川英史や小泉文夫ら、邦楽科教官や学生、卒業生らを中心にして反対運動が起き、問題は国会にまで持ち込まれました。結果として廃止案は退けられ、音楽学校に代わって翌年新設されることになっていた東京芸術大学に邦楽科を設置する要望が文部委員会によって決議され、1950年には正式に設置されました。

小宮の主張は、邦楽は過去の芸術であり、大学で教育すべきほどのものではないゆえ、邦楽科を廃止し、代わりに邦楽研究所を設ければいいというものでした。また新聞紙上で、「(邦楽が)世界の芸術の仲間入りをするためには必ず洋楽の過程を経なければならぬというのが自分の信念だ」と述べ、国会でも「邦楽に将来の発展性はない。琴や三味線は遊里や芝居に結びついた江戸時代の町人文化に過ぎず、国家や国民の役に立つものではない」といった邦楽を低俗とみなす内容の答弁を行ないました。

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