3月3日は「桃の節句」で、女の子の健康と幸せな成長を願う「ひな祭り」として、5月5日の男の子の「端午の節句」と並んで古くから親しまれてきた行事です。
「ひな祭り」は、「ひな人形」に桜や橘、桃の花などの木々の飾り、「雛あられ」や「菱餅」などを供え、「白酒」や「ちらし寿司」などを楽しむ節句祭りです。
1.「桃の節句」「ひな祭り」の起源・由来
正確には「上巳(じょうし)の節句」と言います。「上巳」とは、「3月の最初の巳(み)の日」という意味で、のちに日付が変動しないように3月3日となりました。
その起源は、300年頃の古代中国で始まった「上巳節」です。漢の時代に、徐肇(じょちょう)という男のところに三つ子の女の子が生まれましたが、誕生から3日後に3人とも亡くなったため、人々は「これは何かの祟りだ」と怖れて、川で沐浴して禊をしました。この日がちょうど「3月最初の巳の日」だったため、「上巳節」という厄払いや禊を行う日になったと言われています。
昔から季節や物事の節目には災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていたため、川の水に心身の穢れを流して厄を払う行事や、盃を水に流して宴を催す「曲水の宴」などが行われていました。
つまり、季節の節目の邪気払い行事として、老若男女を問わず皆の幸福を願う行事だったのです。その「上巳節」を遣唐使が日本に伝えたと言われています。
2.「ひな人形」の意味
日本でも古くから「禊(みそ)ぎ」や「祓(はら)い」の思想、「形代(かたしろ)」という身代わり信仰があったため、それが「上巳節」と結びつき、日本独自の文化として定着してきました。
その一つが「流し雛」で、これは自分の体を草木や藁(わら)でこしらえた「人形(ひとがた)」で撫でて穢れを移し、それを川に流す行事が「上巳節」と混じりあったもので、今でもその伝統を守っている地域があります。
また「曲水の宴」(上の画像は京都・城南宮の曲水の宴)も風雅な貴族の文化として発展していきました。そして「ひな人形」を飾る遊びが貴族から良家の子女に広まり、やがて一般庶民にも広まったのです。
平安時代頃から、宮中や貴族の子女の間で紙の人形を使ったままごと遊びが盛んになり、「雛遊び(ひなあそび/ひいなあそび)」と呼ばれるようになりました。「雛」とは大きなものを小さくする、小さなかわいいものという意味です。
この遊びが「上巳の節句」と結びつき、「人の厄を受ける男女一対の紙製立雛」が誕生しました。これが「ひな人形の原型」です。
やがて人形作りの技術が発展して立派なひな人形ができてくると、ひな人形は流すもの(流し雛)から飾るもの(飾り雛/雛飾り)へと変化していったのです。
なお、江戸時代には9月9日の「重陽の節句」にひな人形をもう一度飾る「後(のち)の節供」という風習がありました。「後(のち)の雛」「秋の雛」とも言います。
3.「桃の節句」が女の子の節句となった経緯
江戸幕府が「五節句」を制定し、3月3日の「上巳の節句」を五節句の一つに定めると、5月5日の「端午の節句」が男の子の節句であるのに対し、3月3日は女の子の節句となり、「桃の節句」と呼ばれるようになったのです。
4.「桃の節句」が桃の開花時期とずれている原因
桃は日本では梅や桜ほどポピュラーな花木ではなく、「梅見」や「花見(桜見)」をしないためあまり気付きませんが、桃の開花時期は九州では3月上旬から、関西・関東では3月中旬から、東北は4月上旬から、北海道では4月下旬からで、関西・関東では桜の開花時期より少し早いですがほぼ同じです。
この原因は「旧暦(太陰暦)」と「新暦(太陽暦)」との違いによるものです。旧暦3月3日は、新暦では3月下旬~4月中旬に当たります。
5.「うれしいひなまつり」の歌詞の誤り
サトウハチローの「うれしいひなまつり」は女の子の楽しそうな様子が目に浮かぶ詩です。この詩は、彼が離婚して3人の子供を引き取った時、子供たちのために新しい雛人形を買ったことがきっかけで生まれたそうです。
この曲は短調で愁いも感じさせますが、日本情緒がよく表現されていると言われます。官女から嫁いだ姉を連想するくだりがありますが、これは嫁ぎ先が決まった矢先に18歳で結核のため亡くなった姉へのレクイエム(鎮魂歌)だという解釈もあります。
この歌詞の中に「雛人形」についての誤った描写があるとの指摘があります。「男雛と女雛の一対」を「内裏雛」と呼ぶのが正しく、「お内裏様とお雛様」というのは誤りです。また右大臣を「赤い顔」としているのも誤りで、実際は左大臣です。
6.桃の節句・ひな祭り・ひな人形を詠んだ俳句
「雛祭(ひなまつり)」は、言うまでもなく「春」の季語です。
「子季語」「関連季語」には、「雛人形」「雛遊び」「雛段」「雛の客」「雛の酒」「桃の酒」などがあります。
・謡ひやめ 雛(ひいな)の客を 迎へけり(高浜虚子)
・今は酔ひて 耳の遠さよ お白酒(阿波野青畝)
・うら若き 妻いとほしみ 残雛(のこりびな)(会津八一)
・襟元に 風の小寒き 雛流す(鈴木真砂女)
・御雛を しやぶりたがりて 這子哉(はうこかな)(小林一茶)
・草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家(松尾芭蕉)
・時世には つれぬひゝなの 姿哉(正岡子規)
・端然と 恋をしてゐる 雛(ひいな)かな(夏目漱石)
・手渡しに 子の手こぼるる 雛あられ(中村汀女)
・箱を出る 貌(かほ)わすれめや 雛二対(与謝蕪村)
この最後の与謝蕪村の句の解釈については、大きく分けて明治・大正期の俳人である内藤鳴雪(1847年~1926年)と正岡子規の二つの解釈があります。
①内藤鳴雪の解釈:雛二対といえば、二組の内裏雛と見て置かねばならぬ。箱を出された時に一つの箱の雛と他の箱の雛と互に貌を忘れて居らぬか。一年が間一組ずつ箱を別々にして這入って居たのであるからというので、貌を互に忘れて居らぬかというあどけない戯言も雛には適当して居る。
②正岡子規の解釈:貌わすれめやは自分が愛して居る雛の貌を忘れようやの意で、箱を出した時に慥(たしか)に見覚えのある貌で忘れて居ぬという娘心をいったのであろう。二対というのは調子の上からそういった迄であって、一対でも二対でも別に変わりは無い。
私は俳句には素人ながら、「男雛と女雛の『一組の夫婦雛』が1年振りに別々の箱から出されて互いに見つめ合うように置かれた様子を見て、ほほえましい思いがして詠んだ句」だと思います。①と②の折衷解釈のようですが・・・
余談ですが、正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という俳句の解釈と評価をめぐって有名な「鶏頭論争」がありました。
素人の俳句でもこんな面白い話があります。「五月雨や年中の雨降り尽くし」という俳句がある新聞の俳句コンクールで「特選」に選ばれました。選者の俳人は「五月雨というのは、しとしと降り続く長雨だが、春雨や霧雨のような細雨もあれば、秋雨、冬の時雨のような風情のある雨もあり、また台風の時のような豪雨もありと、一年のさまざまな雨の形を見せてくれるものだ」とこの句を解釈し、激賞しました。
しかし普通の人は、「一年間に降る雨をこの時期に全部降り尽くしてしまうほどの大変な雨量だ」という意味だと解釈すると思います。どうも、この句の作者もそのつもりだったようです。選者の俳人の解釈相違による的外れな激賞か過大評価だったのかもしれません
事程左様(ことほどさよう)に、俳句の解釈とはなかなか難しいものです。
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