1.慶喜の正室・一条美賀子とは
慶喜の正室「一条美賀子(いちじょう みかこ)」(1835年~1894年)は、最後の征夷大将軍・徳川慶喜の正室です。実父は今出川公久、養父は一条忠香、昭憲皇太后は義妹です。幼名は延君(のぶきみ)です。
当初、徳川慶喜は関白・一条忠香の娘・千代君(照姫)と婚約していましたが、婚儀直前に千代君は疱瘡に罹りました。そのため代役として立てられたのが延君でした。延君は忠香の養女となり、「省君」と改名、嘉永6年(1853年)に婚約が調い、江戸に下向、安政2年(1855年)11月15日に結納、同年12月3日に結婚しました。
慶喜との間に安政5年(1858年)に女子を出産しましたが、夭折しました。その後、慶喜は将軍後見職となり、将軍家茂と共に京に向かい、長い別居生活に入りました。慶応2年(1866年)に慶喜は将軍となりましたが、この時も慶喜は入洛中であり、省子も江戸城大奥には入っていません。
慶応4年(1868年)1月にようやく慶喜は江戸に戻ってきましたが、それは将軍職を返上した後のことであり、慶喜はそのまま上野寛永寺、引き続き駿府宝台院で謹慎生活に入り、省子は対面することが出来ませんでした。
明治維新後も慶喜は静岡、省子は東京の一橋屋敷という別居生活は続きました。この頃、「省子」から「美賀子」に改名しています。
2.慶喜の側室・新村信とは
新村信(しんむら のぶ)(1852年?~1905年)は、徳川慶喜が明治2年(1869年)に静岡に隠棲した後に側室となり、十人の子女を儲け、七人が成長しました。「広辞苑」の編纂者として有名な言語学者の新村出は義弟(ともに養子)です。
嘉永5年(1852年)頃、旗本・松平勘十郎(政隆)の娘として生まれたとされています。その後、旗本・荒井省吾の養女となった後、さらに小姓頭取・新村猛雄の養女となりました。
慶喜との間には明治6年(1873年)に長女・鏡子(徳川達孝夫人)、明治8年(1875年)に三女・鉄子(徳川達道夫人)、明治10年(1877年)に五男・池田仲博、明治15年(1882年)に九女・経子(伏見宮博恭王妃)、明治17年(1884年)に七男・慶久、明治20年(1887年)に十一女・英子(徳川圀順夫人)、明治21年(1888年)に十男・勝精(勝海舟の婿養子)をそれぞれ儲けました。
明治維新後も慶喜の側室として仕えたのは、彼女と次にご紹介する中根幸の二人だけです。
3.慶喜の側室・中根幸とは
中根幸(なかね さち)(1851年?~1915年)も、徳川慶喜が静岡に隠棲してからの側室です。十一人の子女を儲けました。
嘉永4年(1851年)頃、旗本・中根芳三郎(正丙)の娘として生まれ、後に旗本・成田新十郎の養女となり慶喜の側室となりました。
慶喜との間には明治7年(1874年)に四男・徳川厚、明治9年(1876年)に四女・筆子(蜂須賀正韶夫人)、明治13年(1880年)に七女・浪子(松平斉夫人)、明治15年(1882年)に八女・国子(大河内輝耕夫人)、明治16年(1883年)に十女・糸子(四条隆愛夫人)、明治20年(1887年)に九男・徳川誠を出産しました。
4.徳川慶喜とは
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)(1837年~1913年、在職:1867年~1868年)は、江戸幕府15代将軍です。
常陸(ひたち)水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の七男で、母は徳川吉子(貞芳院)です。一橋家をつぎ、文久2年将軍後見職として徳川家茂(いえもち)を補佐しました。
その死後慶応2年将軍となり幕政の改革を図りましたが、3年大政を奉還し将軍職を辞任しました。
4年鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸ついで駿府(すんぷ)で謹慎しました。明治2年謹慎を解かれましたが、以後表舞台には立たず、放鷹(ほうよう)・油絵・写真などの趣味に生きました。
なお徳川慶喜については、「最後の将軍徳川慶喜は英邁な君主ではなく、無責任な卑怯者ではなかったか?」に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。