ラボアジエはフランス革命で断頭台の露と消えたが、どんな人物だったのか?

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ラボアジェ

フランス革命でギロチンによって処刑されたルイ15世の公妾「デュ・バリー夫人」の記事を前に書きましたが、化学者ラボアジエも同様に断頭台の露と消えた人物の一人です。

1.ラボアジエとは

ラボアジエは、フランスの化学者・貴族です。

「質量保存の法則」を発見し、「酸素の命名」を行い、「燃焼理論でフロギストン説を否定」したことから、「近代化学の父」と呼ばれています。

(1)生い立ちから学生時代まで

アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ(1743年~1794年)はパリの裕福な弁護士の家に生まれました。5歳の頃に母を失いましたが、莫大な遺産を引き継ぎ、叔母に育てられました。

1754年から1761年まで「マザラン学校」で化学・植物学・天文学・数学を学び、1761年からパリ大学法学部に進学して弁護士試験にも合格しました。

しかし大学法学部在学中から天文学者や植物学者、博物学者、鉱物学者、化学者などからそれぞれの専門分野の学問を学び、自然科学への関心を深めていきました。

(2)フランス科学アカデミー入会から結婚まで

1766年にフランス科学アカデミーが「都市の街路に最良な夜間照明法」という懸賞論文を募集したのに彼が応募したところ、1等賞を獲得してルイ15世のから金メダルを授与されました。

1768年にはフランス科学アカデミーの会員になっています。

彼は裕福で十分な資産を持っており、実験器具を買うお金があったにもかかわらず、実験器具を買う費用を資産からは出さず、1768年頃から「徴税請負人」の仕事をするようになりました。

そして1771年に、徴税請負人長官の娘マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚しました。

これが結果的に、彼が断頭台の露と消える原因となりました。

(3)さまざまな実験から「化学命名法」出版まで

1772年には、貴族の地位を金で買っています。

(4)「化学原論」出版からフランス革命勃発まで

1774年には「質量保存の法則」を発見したり、従来の「フロギストン説」を否定する燃焼理論を発表したりしています。

1789年に彼は「化学原論」を出版し、そこで現在の「元素」に相当する33の単一物質のリストを示しました。

しかし同年、フランス革命が勃発し、「徴税請負人制度」は廃止されましたが、彼はルイ16世に財政面の手腕を見込まれて、「国家財政委員」に任命されました。これに応じて彼はフランスの金融と徴税制度を改革しようとしました。

フランス革命が過激に進行する中で、彼は1792年に政府関係の全ての役職を辞任し、兵器廠

にあった住居(実験室も兼ねた住居)からも引っ越して、科学アカデミーの活動に専念するようになりました。しかし革命によって科学アカデミーも閉鎖となり、彼の「呼吸と燃焼に関する生理学的実験」も中途で終わりました。

2.ラボアジエが処刑された理由

1793年11月24日、「革命政府」は「徴税請負人」を全員逮捕すべく指名手配をしました。「徴税請負人はそれまで専制的な王の手先・共犯者となり、市民を苦しめていた者である」との理由からです。

実際、徴税請負人たちは市民から正規の税に加え、しばしば不当で高額な手数料をさらに取ったりして市民を苦しめていたようです。ただし、徴税請負人でもあったラボアジエはそこまで酷い徴税はせず、むしろ税負担を減らそうと努力していました。

彼は自首しましたが、「徴税請負人の娘」と結婚していたことなどを理由に投獄されてしまいました。

1794年5月8日、「革命裁判所」における審判で、「フランス人民に対する陰謀」の罪で死刑判決が下りました。

ラボアジエの弁護人は、彼の科学上の功績を持ち出して弁護しましたが、「共和国に科学者は不要である」と裁判長ジャン=バティスト・コフィナルから指摘され、その日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで処刑されました。

なお、彼が投獄・処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあったジャン=ポール・マラー(1743年~1793年)が、かつて学会に提出した論文が、審査を担当した彼によって却下されたことを逆恨みによるものとも伝えられています。却下された理由は、「実験もせず、憶測の内容であったため」だったそうです。

彼もフランス革命の狂気の嵐による犠牲者の一人と言えそうです。

3.ギロチンの都市伝説

ラボアジエがギロチンにかけられる際、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行ったという話があります。

しかしラボアジエの処刑の時は、35分間で26人を処刑する流れ作業の途中で行われ、その場にはラグランジュら数名の科学者が立ち会ってはいましたが、警察官の列によってギロチンから隔離されており、そのような実験をする時間も猶予もない状態でした。

また、実験を依頼されたのは数学者・天文学者のジョセフ=ルイ・ラグランジュとされていますが、彼の著書にそのような記述は全くありません。

したがって、この話は事実ではなく、ボーリュー医師の1905年の論文などをもとに、1990年以降に作られた「都市伝説」のようです。

1998年に「ディスカバリーチャンネル」で放送された番組「ギロチン」の中で、神経外科医の解説とともに出所不明のまま取り上げられたことで、この都市伝説が広まってしまったと歴史家のジェンセンは指摘しています。

4.ラボアジエの業績

上にご紹介した「ギロチンの都市伝説」で、ラボアジエから「最期の実験」を依頼されたと言われる数学者で天文学者のジョセフ=ルイ・ラグランジュ(1736年~1813年)(下の画像)は、ラボアジエの処刑について、「ラボアジエの頭を斬り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つ者が現れるには100年かかるだろう」と述べ、彼の才能を惜しんでいます。

ラグランジュ

(1)質量保存の法則

1774年に体積と重量を精密に測る定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという「質量保存の法則」を発見しました。

(2)燃焼理論

ドイツの化学者・医師のゲオルク・シュタール(1659年~1734年)が提唱し当時支配的であった「燃焼は一種の分解現象であり、フロギストンが飛び出すことで熱や炎が発生する」とする「フロギストン説」を彼は否定し、1774年に「燃焼は酸素との結合である」と説明しました。

(3)酸素の命名

1779年に彼は酸素を「オキシジェーヌ(oxygène)」と命名しました。

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