家光の正室は初の公家の娘で、側室の「お玉の方」(犬公方の親)は八百屋の娘

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徳川家光

1.家光の正室・鷹司孝子とは

鷹司孝子

鷹司孝子(たかつかさ たかこ)(1602年~1674年)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の正室(御台所)です。初の公家の娘の正室です。院号は本理院(ほんりいん)。

父は鷹司信房、母は佐々成政の娘・輝子(岳星院)。兄に鷹司信尚、弟に鷹司信平(鷹司松平家の祖・松平信平)がいます。家光の息子である5代将軍徳川綱吉の正室の鷹司信子は信尚の孫であり、孝子の姪孫にあたります。

家光は将軍家が公家から妻を迎え入れる先鞭をつけた訳ですが、この頃、幕府と朝廷との関係は険悪で、その関係性がそのまま夫婦仲に表れてしまいます。

家光との仲は結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後程なくして事実上家光から離縁されています。

大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で長期にわたる軟禁生活を送らされるなど、家光の在世中は終始忌み嫌われ、冷遇され続け、家光との間に子供を儲けることはできませんでした。

家光が孝子との実質的な夫婦生活を送らなかったのには、家光の男色関係などの要因が絡み合っていると思われますが、根本にあったのはやはり二人の性格の問題でしょう。

女嫌いで気の強い家光と、セレブ特有のプライドの高さを持った孝子では折り合いが付かないはずです。幕末の「公武合体」で皇女和宮が降嫁した時には、将軍家茂との間ではなく、「天璋院篤姫VS.皇女和宮のバトル」が起こりました

しかし弟の鷹司信平(鷹司松平家の祖・松平信平)が孝子を頼って江戸へ来た時には、家光は信平を歓迎して俸禄を与えて召し抱えました。

家光が死去する際、形見分けとして孝子へ与えられたのは、金わずか50両と幾つかの道具類のみでした。また家光は家綱や綱吉たち自らの息子と孝子との養子縁組も一切結ばせませんでした。

2.家光の側室・お玉の方(桂昌院)とは

お玉の方・桂昌院

家光の乳母の春日局は、家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局(しょうぐんさまおつぼね)」として大御台所(おおみだいどころ)・お江与の方の下で、大奥の公務を取り仕切り、大奥で権勢を振るうようになりました。

そして1626年にお江与の方が亡くなると、春日局は家光の世継ぎを得させるために側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万、お蘭(お楽の方)、お振、お夏、お玉、お里佐、お昌などの女性を次々と大奥に入れました。

男色家で、女性に興味を持たない家光のために、女性を男装させて閨に入り込ませることもしたそうです。

家光の側室の中で、最も有名なのが「お玉の方」(後の桂昌院)です。彼女は五代将軍綱吉の生母で、「犬公方の生みの親」です。「玉の輿」の語源となった女性でもあります。

「お玉の方」こと「桂昌院(けいしょういん)」(1627年~1705年)は、徳川三代将軍家光の側室で、京の八百屋仁右衛門(にえもん)の次女、関白二条光平の家司(けいし)本庄宗利(むねとし)の養女宗子。秋野、お玉の方と称しました。

家光の側室六条有純の女(むすめ)「お梅の方」の縁で江戸へ下り、1639年に部屋子として家光の側室「お万の方」に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになりました。

長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、1646年に徳松(とくまつ)(綱吉)を生みました。

1651年に家光が没すると落飾し、桂昌院と号して筑波山知足院に入りましたが、1680年に綱吉が将軍となると江戸城三の丸に住んで「三の丸殿」と称され、将軍の生母として権勢を振るいました。

綱吉の厚い孝敬を受け、1702年には従(じゅ)一位を授けられました。また弟宗資(むねすけ)(笠間藩5万石)をはじめ、その一族の多くは幕臣として栄進しました。

綱吉になかなか男子が生まれなかったため、帰依していた僧亮賢(りょうけん)から隆光(りゅうこう)を紹介され、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」発布に関わったとされています。

余談ですが、彼女は自分と同じく家光側室だった「お夏の方」(順性院)(1621年~1683年)と対立し、折檻を受けたことがあるそうです。ちなみに「お夏の方」は「御湯殿役」を務めていた時に家光の手が付いた女性です。

3.徳川家光とは

徳川家光(1604年~1651年、在職:1623年~1651年)は、江戸幕府3代将軍です。二代将軍秀忠の次男(長男長丸は早世)で、母は秀忠の正室「お江与の方(崇源院)」です。幼名竹千代。

父母が弟の忠長を偏愛したため世子の地位は必ずしも確定していませんでしたが、家光の乳母春日局 の嘆願をうけた家康の指示で世継ぎとなりました。元和6(1620)年元服。

元和9(1623)年父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けました。政治の実権は江戸城西の丸にあった大御所秀忠が握っていましたが、秀忠は将軍の地位を尊重し、政務に関しては西の丸年寄筆頭の土井利勝と本丸年寄筆頭の酒井忠世の合意を義務づけました。

寛永9(1632)年秀忠が死去すると、実質的な代替わりとして、10年諸国巡見使の派遣、11年上洛、朱印改め、12年武家諸法度の改訂などの行事を遂行、政務については年寄酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝の3人の合議を義務づけ特定人物に権限が集中するのを避けました。

また幼少時から小姓として仕えた稲葉正勝(11年死去)、松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛などを年寄に昇格させ、各役職の権限を定め、評定所の機構を整備するなど幕府機構の整備に努めました。

また貿易体制を整備するとともに、キリシタンの禁制を強化し、12年日本人の海外渡航を禁じ、13年ポルトガル人との混血児を国外に追放しました。

15年、天草・島原のキリシタンの一揆を鎮圧した家光は、16年ポルトガル人追放を決定、18年にはオランダ人を長崎出島に移して管理を強化しました。

家光がその親政初期に謀反の嫌疑で肥後国熊本藩主加藤忠広を改易し、弟忠長を自害させるなどの措置をとったことと、病弱で神経質な性格であったことが年寄や諸大名を恐れさせ、時代の流れにも助けられて家光自身の意図する幕府権力の強化と機構の整備が比較的スムーズに進みました。法号大猷院で日光山に葬られました。



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