家綱の正室は初の皇族で、側室の「お満流の方」は懐妊中に家綱を看取る

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徳川家綱

1.家綱の正室・浅宮顕子(高厳院)とは

家綱の正室は、伏見宮(ふしみのみや)貞清親王の女(むすめ)・浅宮顕子(あさのみやあきこ)(1640年~1676年)で、将軍の正室になった初の皇族です。法名は高厳院です。

当初から家綱との関係は冷え切っており、子供も生まれませんでした。

1676年(延宝4年)に乳癌を発症し、家綱から直接医師の診察を受けるように勧められましたが「簾外の者に対面するのは、公家方の礼を乱すことになる」と言って医師による触診を拒否しました。病に苦しみながらも一度も「苦しい」とは言わなかったそうです。36歳の若さで亡くなりました。

家光と初の公家の娘である正室・鷹司孝子との関係がそうであったように、家綱と初の皇族である浅宮顕子との関係も、「水と油」で衝突が避けられなかったのでしょう。

プライドだけが高い公家・皇族と実力のある武家の棟梁たる将軍との婚姻は、形式的・表面的なものに過ぎず、衝突というよりも最初から夫婦とは言えない関係だったのかもしれません。

2.家綱の側室「お満流の方」(円明院)とは

家綱の側室「お満流(まる)の方」こと「円明院(えんみょういん)」(1660年~1690年)は、旗本佐脇安清の娘で、経緯は定かではありませんが1677年に大奥に入りました。

家綱は寵愛していた美貌の側室「お振の方」(養春院)(1649年~1667年)を亡くした後でもあり、なおさら家綱の寵を集めました。1678年(延宝6年)に家綱の子を懐妊しましたが、月足らずの流産に終わってしまいます。

翌年再び懐妊しましたが、懐妊中に家綱が病に倒れます。そしてお満流の方が宿した子どもまでも巻き込んだ「将軍後継問題」が発生します。

最終的に後継者は家綱の弟・綱吉に決まりました。そしてまたもやお満流の方は流産してしまいました。

家綱が亡くなると、彼女は落飾し、円明院と号して夫と子の菩提を弔う生活に入り、30歳の若さで亡くなりました。

3.徳川家綱とは

徳川家綱(とくがわいえつな)(1641年~1680年、在職:1651年~1680年)は、江戸幕府4代将軍です。3代将軍家光(いえみつ)の長男で、母は「於楽之方(おらくのかた)」です。

幼名は竹千代。1644年(正保元年)家綱と命名。翌1645年従三位権大納言(じゅさんみごんだいなごん)となりました。

1650年(慶安3年)世子(せいし)となって西の丸に移り、翌1651年家光の死去に伴い、わずか11歳で将軍となりました。

しかし家光死去の直後に、浪人の由井正雪や丸橋忠弥らによるクーデター未遂事件(慶安の変)が起こるなど政情不安に見舞われましたが、叔父の保科正之や家光時代からの大老 酒井忠勝、老中  松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら「寛永の遺老」といわれる名臣、御側・大目付  中根正盛らの補佐により、この危難を乗り越えました。

家綱は徳川氏初の幼将軍であり、かつ長じても病弱であったため、自ら政治を行うことは少なく絵画や魚釣りなどの趣味を好み、「左様(さよう)せい様」とのあだ名がありました。

保科正之(ほしなまさゆき)、酒井忠勝(ただかつ)、松平信綱(のぶつな)ら徳川一門、元老および老中による集団指導のもとで、文治政治が行われ、幕政機構の整備とともに、この期に幕藩体制が確立されました。

1663年(寛文3年)に行われた武家諸法度の改正(寛文令)で「殉死の禁止」と「大名証人制の廃止」が決められましたが、これは「寛文の二大美事」と呼ばれています。ちなみに「大名証人」とは、戦国時代からの遺風である「大名の人質」のことです。

彼には実子がなく、世継ぎ問題を残したまま39歳の若さで亡くなりました。法号は厳有院(げんゆういん)です。

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