ミケランジェロは早熟の天才で「万能の人」。ダビデ像やピエタも20代の作品!

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ミケランジェロの肖像画・ヴォルテッラ筆

上の画像は、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが描いたミケランジェロの肖像画です。

ミケランジェロと言えば、20代の若さで制作した「ダビデ像」(下の画像)や「ピエタ」などの彫刻が最も有名ですが、どのような人物でどんな人生を送ったのでしょうか?

ダビデ像

1.ミケランジェロとは

ミケランジェロ・ブオナローティ(1474年~1564年)は、イタリア「盛期ルネサンス(*)」の彫刻家・画家・建築家・詩人です。

(*)「盛期ルネサンス」とは、美術史において、イタリアルネサンス芸術の最盛期(1450年~1527年)を指す言葉です。前期はフィレンツェのメディチ家の庇護を受けたフィレンツェ派が活躍した時期で、後期はローマ教皇ユリウス2世が芸術家たちのパトロンとなった時期です。このユリウス2世やレオ10世(メディチ家出身)は「ルネサンス教皇」と呼ばれます。

彼は西洋美術史上のあらゆる分野に大きな影響を与えた芸術家です。彼自身が本業と考えていた彫刻以外の作品は多くはありませんが、優れた作品を残しました。ただ何と言っても彼の真骨頂は彫刻作品です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともに、「盛期ルネサンスの三大巨匠」と言われています。またレオナルド・ダ・ヴィンチと同様に、ルネサンス期の典型的な「万能の人」と呼ばれています。

彼は絵画作品を軽視していましたが、システィーナ礼拝堂の「システィーナ礼拝堂天井画」と祭壇画「最期の審判」は大変有名です。

(1)生い立ちと幼少期

彼は、トスカーナ州アレッツォ近郊のフィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれました。彼の一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいましたが、彼の父親は銀行経営に失敗し、共和国の臨時職員として生計を立てていました。

1481年、彼が6歳の時母が亡くなりましたが、その当時彼の父親は大理石採石場」小さな農園を経営していました。

彼は「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿(のみ)と金槌(かなづち)の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と述べています。

父親は彼を人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとしました。しかし彼は学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好みました。

彼は1488年、13歳の時に画家ドメニコ・ギルランダイオ(1449年~1494年)に弟子入りし、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家として認められました。

1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチ(1449年~1492年)がギルランダイオに「最も優れた弟子2名を自分のもとに寄こすように」と求めたのに対し、彼とフランチェスコ・グラナッチを派遣しました。

彼は1490年~1492年にかけて、メディチ家が創設した人文主義の「プラトン・アカデミー」に参加しています。

「階段の聖母」と「ケンタウロスの戦い」はこの頃の作品で、「ケンタウロスの戦い」はロレンツォ・デ・メディチが彼に依頼した作品です。

(2)青年期

1492年にロレンツォ・デ・メディチが亡くなると、彼を取り巻く環境は激変し、メディチ家の庇護から離れて父親のもとへ戻りました。

その後数ヵ月かけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の「キリスト磔刑像」(1492年)を制作しました。

この修道院長は、修道院附属病院で死去した人の身体を、「解剖学」の勉強のために彼に提供した人物です。彼が「ダビデ像」のようにリアルな男性裸像を制作できたのは、「解剖学」の知識のお陰かもしれませんね。

🇮🇹ダビデ像の身体が解剖学通りでミケランジェロが凄い。

大雪が降り積もった1494年1月に、彼はロレンツォ・デ・メディチの後継者であるピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472年~1503年)から「雪像制作」の依頼が舞い込み、再びメディチ家宮廷に招かれることになりました。「さっぽろ雪まつり」のような発想でしょうか?

しかし同年メディチ家は、フランス軍のイタリア侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまいました。

彼はこの政変の直前にフィレンツェを去り、ヴェネツィアを経てボローニャに居を移しました。

その後1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着き、フランス軍も撤退したため、フィレンツェに戻りました。しかしメディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ以外のメディチ家の庇護を受けざるを得ませんでした。

メディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチは、「古代ローマの古美術品としてローマに送れば高値で売れる」と考えて、彼に「古代ローマの発掘品」に似せた小品の「幼児洗礼者ヨハネ」と「キューピッド」を作らせ、「幼児洗礼者ヨハネ」を枢機卿ラファエーレ・リアーリオに売りつけました。

枢機卿はこの作品が偽物と気付きましたが、彫刻自体の出来栄えに感銘し、彼をローマに招きました。

自分の作品がローマで認められたことと、当時のフィレンツェの保守的な情勢に嫌気がさしていたことから、彼は枢機卿の招きに応じることにしました。

(3)ローマ時代

1496年にローマに到着した彼は、枢機卿から依頼を受け、ローマ神話の酒の神をモチーフにした「バッカス像」の制作を開始しました。しかし枢機卿はこの作品が気に入らなかったようで、受け取りを拒否しました。この作品はその後、銀行家ヤコポ・ガッリのコレクションとしてその庭に飾られることになりました。

1497年には教皇庁のフランス大使から「ピエタ」の制作を打診され、翌年正式に契約して制作を開始しました。

この作品は当時「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価されました。彼の伝記作者ヴァザーリは「間違いなく奇跡と言える彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」と述べています。

(4)再びフィレンツェに戻る

1498年、メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした芸術否定論者で聖職者のジロラモ・サヴォナローラ(1452年~1498年)は失脚し処刑されました。

代わってゴンファロニエーレのピエロ・ソデリーニ(1450年~1522年)が台頭しました。状況が変わったフィレンツェ共和国に、彼は1499年から1501年にかけて帰還しています。

彼は羊毛ギルドの参事たちから、「フィレンツェの自主性を表す象徴として壮大なダビデの彫刻」の制作を依頼されました。

「ダビデ像」が完成したのは1504年ですが、この作品は彼が持つ彫刻家としてのたぐいまれな才能・技量・創造力への評価を決定的なものとしました。

(5)再びローマに呼び戻される

1505年に彼は、新しく選出されたローマ教皇ユリウス2世(1443年~1513年)にローマへと呼び戻され、ユリウス2世が死後に納められる霊廟の制作を命じられました。

教皇の後援を受けた彼は、ユリウス2世以外にも歴代教皇から続々と発注される多くの芸術作品の制作に追われ、当初の目的だった「ユリウス2世の霊廟」制作は何度も中断し、完成までに40年の歳月を要しました。

ただし、中央に「モーゼ像」が配されたこの壮麗な霊廟は、彼には満足のいくものではなかったようです。

「ユリウス2世の霊廟」の制作途中に彼は、ユリウス2世から「システィーナ礼拝堂の天井画」制作を命じられました。ドナト・ブラマンテとラファエロが、彼のことをよく知らないにもかかわらず彼を推薦したためです。

彫刻家であるとの自負を持っていた彼には、この仕事はあまり好ましいものではありませんでした。当時フレスコ画家の第一人者として絶頂期にありユリウス2世のお気に入りだったラファエロに比べると、不快な経験だったとされています。

元々彼に与えられた計画は、天井に空を背景とした十二使徒を描くというものでした。しかし彼は当初の計画を破棄して、「創世記」のエピソードをもとにした人類の堕天と救済を、預言者たちとキリストの家系に連なる人々によって描き出すというはるかに複雑な構成を採用しました。

1513年にユリウス2世が死去し、後継の教皇にメディチ家出身のレオ10世(1475年~1521年)が選出されました。

彼はレオ10世(ロレンツォ・デ・メディチの次男)とは見知らぬ他人ではなかったので、メディチ家一族の教会サン・ロレンツォ大聖堂のファザード再建と彫刻による装飾を依頼するのは自然の流れでした。

彼は建築の第一人者ではありませんでしたが、レオ10世は彼に一任しています。

レオ10世は1521年に急死し、後継のハドリアヌス6世も就任後1年足らずで死去し、次の教皇にはレオ10世の従弟のクレメンス7世(1478年~1534年)でした。

クレメンス7世は彼のもっとも重要なパトロンとなりました。

1546年に彼は、それまでブラマンテ、ラファエロらが40年以上にわたって続けてきたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任されています。

最終的に彼はドームの完成を待たずに、88歳でローマで死去しました。

2.ミケランジェロの主な作品

(1)彫刻

①「階段の聖母」(1491年頃)

階段の聖母

②「ケンタウロスの戦い」(1492年頃)

ケンタウロスの戦い

③「バッカス像」(1497年)

バッカス像

④「ピエタ」(1498~1500年)

ピエタ

⑤「ブルッヘの聖母子」(1501~1504年)

ブルッヘの聖母子

⑥「聖パウロ」(1503~1504年)

聖パウロ

⑦「聖ペテロ」(1503~1504年)

聖ペテロ

⑧「ダビデ像」(1504年)

ダビデ像

⑨「モーゼ」(1513~1515年頃)

モーゼ

⑩「瀕死の奴隷」(1513~1515年)

瀕死の奴隷

⑪「ミネルヴァのキリスト」(1521年)

ミネルヴァのキリスト

(2)絵画

①「マンチェスターの聖母」(1497年頃)

マンチェスターの聖母

②「キリストの埋葬」(1500~1501年頃)

キリストの埋葬

③「聖家族」(1507年頃)

聖家族

④「システィーナ礼拝堂天井画」(1508~1512年)

システィーナ礼拝堂天井画

⑤「アダムの創造」(1508~1512年)(「システィーナ礼拝堂天井画」の一部)

アダムの創造

⑥「最期の審判」(1541~1547年)

最期の審判

⑦「サウルの改宗」(1542~1545年頃)

サウルの改宗

⑧「聖ペテロの殉教」(1546~1550年頃)

聖ペテロの殉教

(3)建築

①「サン・ピエトロ大聖堂のドーム」(ミケランジェロ設計、1506年着工)

サン・ピエトロ大聖堂のドーム・ミケランジェロの

②「メディチ家礼拝堂新聖具室」(1520~1534年)

メディチ家礼拝堂新聖具室

③「ラウレンツィアーナ図書館」(1523~1559年)

ラウレンツィアーナ図書館

④「カンピドリオ広場」(1536~1546年)

カンピドリオ広場

⑤「ファルネーゼ宮殿」(1546年)

ファルネーゼ宮殿

⑥「ポルタ・ピア」(1561~1565年)

ポルタ・ピア

ミケランジェロ システィーナ礼拝堂天井画



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