啓蒙専制君主で大帝と呼ばれたロシア皇帝エカテリーナ2世とは?

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エカテリーナ女帝

ヨーロッパで有名な女帝と言えば、イングランドとアイルランドの女王だったエリザベス1世(1533年~1603年)、オーストリア女帝のマリア・テレジア(1717年~1780年)、イギリスのヴィクトリア女王(1819年~1901年)。ロシア帝国のエカテリーナ1世(エカチェリーナ1世)(1684年~1727年)などが頭に浮かびますが、「大帝」と呼ばれたロシア皇帝エカテリーナ2世(エカチェリーナ2世)も忘れてはならない存在です。

ではいったいエカテリーナ2世とはどのような女性でどんな生涯を送ったのでしょうか?

1.エカテリーナ2世とは

エカテリーナ2世(1729年~1796年、在位:1762年~1796年)は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝です。

夫はピョートル3世(1728年~1762年、在位:1762年1月5日~1762年7月9日)ならびに「秘密結婚」した軍人・政治家のグリゴリーポチョムキン(1739年~1791年)で、子はパーヴェル1世などです。

プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男)とともに、「啓蒙専制君主」の代表とされます。

ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、「大帝」と呼ばれています。

従来は「エカテリーナ」と呼ぶのが一般的でしたが、近年は「エカチェリーナ」の表記が普及して来ました。

2.エカテリーナ2世の生涯

エカテリーナ1世家系図

(1)生い立ちと少女時代

彼女はドイツのアンハルト・ツェルプスト候クリスティアン・アウグスト(プロイセン軍少将)の娘として生まれました。もとの名前はゾフィー・アウグスタ・フレデリーケです。

母のヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク王家オルデンブルク家の分家で、北ドイツの小邦領主であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身でした。

ゾフィーは2歳の時からフランス人家庭教師ユグノーに育てられ、特に2番目の家庭教師バベ・カルデル嬢にはロシアへ行くまで教えを受けました。

その結果、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育ちました。乗馬も達者でしたが、音楽は苦手でした。

それほどの美貌ではありませんでしたが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねました。

本来家柄的には、とても大国の后候補に挙がる身分ではありませんでしたが、母・ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストが、ロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、彼女は14歳でロシア皇太子妃候補となりました。

(2)結婚

ピョートル3世

ロシアに移って、1744年に大公ピョートル(後のピョートル3世)(上の画像)と婚約しました。大公ピョートルの叔母でエカテリーナ1世の娘である女帝エリザヴェータ(1709年~1762年、在位:1741年~1762年)の寵愛を得て、エカテリーナ・アレクセーブナと改名し、1745年に大公と結婚しました。

大公の父は、ドイツのホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒで、母はピョートル1世の長女アンナ・ペトロヴナです。

夫妻はともにドイツ育ちのため、ドイツ語で存分に会話できる相手でしたが、ロシア文化には不慣れでした。

しかし彼女はロシア語を習得し、ロシア正教にも改宗し、ロシアの貴族や国民に支持される努力を惜しまなかったのに対し、ピョートルはドイツ風にこだわり続け、ドイツ式の兵隊遊びに熱中し、周囲の反感を買い続けました。

ピョートルに唯一かなりの才能があった趣味は音楽でしたが、彼女には音楽の才能がありませんでした。

その結果、不仲になり、結婚後も長期間夫婦関係はありませんでした。彼女はセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵らの男性と半ば公然と関係を持つようになりました。

エリザヴェータ女帝や周囲が世継ぎ確保の大義名分で黙認したとも言われています。男性の場合の「側室」「愛妾」のような位置付けでしょうか?

一方、ピョートルの方も、大宰相(帝国宰相)ミハイル・ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを寵愛するようになり、夫婦関係は完全に破綻しました。

(3)多数の愛人と出産

私生活の面では、生涯に約10人の「公認の愛人」を持ち、数百人とも言われる愛人を抱えました。孫のニコライ1世からは、「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末でした。

①1754年、男児パーヴェル・ペトロヴィチ大公(後のパーヴェル1世)を出産しました。実際の父親はセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵とも言われています。

②1757年、女児アンナを出産しました。実際の父親はスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)と推測されています。

③1758年、女児ナターリア・アレクセーエヴナを出産しました。実際の父親はスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)もしくは近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵と推測されています。

④1761年、女児エリザヴェータ・アレクセーエヴナを出産しました。実際の父親は近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵と推測されています。

⑤1762年、男児アレクセイを出産しました。実際の父親は近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵です。

⑥1775年、女児エリザヴェータ・ポチョムキナを出産しました。実際の父親は「秘密結婚」の相手グリゴリー・ポチョムキンと推測されています。

(4)皇后のクーデター

皇后のクーデター

1761年末にエリザヴェータが死去し、1762年1月に大公はロシア皇帝ピョートル3世として即位しました。

病弱かつ意志薄弱で親ドイツ的だったため貴族の信頼の薄かった皇帝に対し、彼女の側近である近衛軍の将校グリゴリー・オルロフ公爵などが「クーデター」を起こし、彼女を帝位に迎えると、ピョートルは1762年6月、無抵抗で退位しました。ピョートルはその直後の7月6日に乱闘の中で亡くなりました。

(5)啓蒙専制君主としての治世

戴冠式のエカテリーナ女帝

一時は夫殺害の嫌疑をかけられた彼女も、1762年9月にロマノフ朝第8代ロシア皇帝として即位しました。「ロシアの血を全く引いていない、しかし誰よりもロシアに誇りを持つ女帝」の誕生です。

その後34年間、ロシア人になりきって統治しました。そう言えば、エカテリーナ1世も「リトアニア出身の外国人」でしたね。

彼女はヴォルテールなど多くの啓蒙思想家と交わり、自ら「啓蒙専制君主」をもって任じ、国政に当たりました。

1767年、国民各層の代表を集めてモスクワで開催した法典編纂委員会のために「訓令」を作成し、法治主義を核心とする自らの見解を示しました。

しかし専らモンテスキューとベッカリーアの著作に拠(よ)った「訓令」は急進的過ぎ、1年半かけたこの委員会も、大した成果を収めずに終わりました。

(6)プガチョフの乱

当時、国家勤務から解放された貴族は、農奴労働により農場、工場経営に努めたため、農奴に対する搾取が強化されました。農民の不満は増大し、ついにはプガチョフを首領とするボルガ流域の大反乱「プガチョフの乱」(1773年~1775年)に発展し、農民の蜂起は中央ロシアにも波及しましたが、結局政府により鎮圧されました。

プガチョフの乱

この反乱によって国家行政の弱点を突かれた彼女は、行政改革に着手しました。

1775年、県知事と若干の県を統括する総督に有力政治家を任命し、互選による貴族を郡の機関の長に置く「県行政令」を発布し、実質的には貴族主体の地方分権を推進しました。また同年、商工業の独占の廃止、営業の自由を布告しました。

ついで1785年に貴族に対し、土地と農奴の所有権、勤務の自由、免税などの特権を保証した認可状を、また同年、市民に対して制限付きの自治を認める認可状を付与しました。

こうして彼女は、自己の権力の基盤である貴族の特権を大幅に認め、貴族に広大な国有地を賜与して、大量の国有地農民を農奴に転化しました。その結果、農奴は完全に貴族の奴隷と化し、貴族の黄金時代を現出しました。

(7)対外膨張政策

対外的には、ピョートル大帝の偉業を進展させ、対外膨張政策で大きな成果を挙げました。

なお「秘密結婚」の相手グリゴリー・ポチョムキンは、国政に関して彼女に幾度も助言を与え、クリミア併合の立役者となり、「黒海艦隊」を創設しました。

ポーランド王位継承への干渉に端を発した「第1回ポーランド分割」(1772年)から、「第2回ポーランド分割」(1793年)、「第3回ポーランド分割」(1795年)にかけて、ポーランド本土の大部分を獲得しました。

その間に、オスマン帝国との二度にわたる「露土戦争」(1768年~1774年、1787年~1791年)の勝利により、クリミア・ハン国を併合して黒海支配に成功し、ロシアの国際的地位を著しく高めました。

(8)教育・文化の重視とフランス革命後の反動

彼女はまた教育を重視し、女学校や医学校を設けたり、「エルミタージュ美術館」の礎となる絵画のコレクションや宝飾品や芸術品の収集に努めました。英邁の誉れ高い女性側近のダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手し、後世のロシア文学発展の基盤を作りました。

しかしフランス革命勃発後は著しく反動的になり、農奴批判の書を著したラジーシチェフを弾圧するなどしました。

人材の登用に長じ、有能な補佐役を利用して、私生活における悪評(ポチョムキンをはじめ、次々と愛人を変えたこと)にもかかわらず、「貴族帝国」の熱心な統治者の生涯を全うしました。

1796年11月、サンクトペテルブルクで卒中によって死去しました。

晩年のエカテリーナ女帝

【Season3 日本初!12/10(木) スタート!】「エカテリーナ」Season1~3



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