俳句で避けるべき「季重なり」とは?「季重なり」の有名な俳句も紹介

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蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ

俳句は、「季語」を一つ入れる五・七・五の17音が基本の定型詩であることはよく知られていますね。

しかし「季語無用」を主張し、自然のリズムを尊重した「無季自由律俳句」の提唱者で「層雲」を主宰したの荻原井泉水という俳人がいます。「新傾向俳句」の旗手河東碧梧桐は、最初「層雲」に参加しましたが、その後「季語」を捨てることを拒んで荻原井泉水と袂を分かちました。

ところで皆さんは「季重(きがさ)なり」をご存知でしょうか?

今回はこれについてわかりやすくご紹介したいと思います。あわせて「季重なり」の有名な俳句もご紹介します。

1.「季重なり」とは

季重なり」とは、連句や俳句で、1句のうちに「季語」が二つ以上入ることです。一方が主であることが明らかなときなどを除いて、通常これを嫌います。

季語の使い方を誤ると季語それぞれの持ち味がぶつかり合い、双方の良さを殺してしまい、良くない俳句が出来上がってしまうからです。

確かに「春」の季語が二つ入っていたら、どちらを主にしたいのか判断に迷いますよね。

ましてや「春」と「秋」の季語が二つ入っていたら、作者は一体どちらの季節のことを詠んだのか(あるいはどちらの季節のことを読者に訴えたいのか)理解不能になるのが普通です。

このように季重なりの中でも、「全く異なる季節の季語を入れた俳句」は、季違いとも呼ばれています。「気違い」ではありません、念のため。

2.「季重なり」の有名な俳句

・蛤の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ(松尾芭蕉

これは「おくのほそ道」結びの地である大垣で詠まれた「おくのほそ道」の結びの句です。なお「おくのほそ道」の旅の始まり、江戸を出発する際には「行く春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ)」と詠まれており、この二句は対を成すといわれています。

この中には「蛤」(春の季語)と「ゆく秋」という2つの季語が入っています。そのため、この句は「季重なり」と言えます。

このように一句のなかに二つ以上の季語が存在することを「季重なり」といいますが、その季語に強弱がある場合、より強い意味をもつものを季語とします

この句は、秋から冬への季節の移ろいに、惜別の情や寂しさを重ね合わせ詠まれているため、季語は「行く秋」になります

「深まり行く秋、ハマグリの殻と身とを二つに引き裂くように、また再び悲しい別れの時が来た」という意味です。

・目には青葉 山ほととぎす 初鰹(山口素堂)

これは江戸時代の俳人山口素堂(1642年~1716年)が詠んだ句ですが、「青葉・ほととぎす・初鰹」という3つの「夏の季語」が使われています。

「青葉」は目で鑑賞するもので「視覚」を刺激し、「山ほととぎす」の声は耳で聞き「聴覚」を刺激する、そして「初鰹」は口で味わうものであり、「味覚」を楽しませてくれます。

この句は五感の中の3つまで盛り込んだ、実に感覚的な句であるという高い評価を受けています。

・啄木鳥(きつつき)や 落ち葉をいそぐ 牧の木々(水原秋桜子)

「キツツキが木を叩く音が聞こえる。そして冬支度を急ぐように牧場の木々が落葉している」という意味です。

季語は「啄木鳥」と「落葉」の2つが使われていますが、「啄木鳥や」と切れ字が使われていることで、一目で啄木鳥に焦点が当たるように工夫されています。

・一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 (松尾芭蕉)

「同じ一軒の宿に遊女と泊り合わせた。おりしも庭には萩の花が咲き、月も照らしているよ」という意味です。

遊女たちの哀れな身の上を思う気持ちが、「萩の花」と「月」という2つの季語を使うことでより余情を深めています。萩の花は遊女、月は芭蕉を表しているという意見は多いですが、芭蕉が自身を上から照る月に見立てることはないのではないかという意見もあります。

・夕月や 納屋も厩も 梅の影 (内藤鳴雪)

内藤鳴雪(1847年~1926年)は、明治・大正期の俳人です。

「月は秋ほど美しくないかもしれないが、春も出る。しかし梅の花は秋には咲かない。」という意味です。

「夕月」は秋の季語であり、「梅」が春の季語ですが、この句の季語は「梅」で春の句に分類されます。解釈の前提として、梅を俳句で取り扱うときは、その香りについて詠むものという暗黙の了解があります。そのため、梅の木はそこにあるだけではダメで、花が開いていなくては香りもしないし、意味がないということを伝えたいのです。

・行水の 捨てどころなし 虫の声 (上島鬼貫)

「行水をしてタライの水を捨てようと思ったが、庭のあちこちで虫の声がしていて、虫を驚かせたり流してしまったりするのが可哀想で捨てられない」という意味です。

こちらは「行水」が夏の、「虫の声」か秋の季語になりますが、「虫の声」で秋の句になります。「行水」は人間がやることなので夏でなくても春や秋でもやるかもしれないが、「虫の声」は秋にしか聞くことが出来ないからという理由からだそうです。

ちなみに、上島鬼貫(うえじまおにつら)(1661年~1738年)は江戸時代の俳諧師です。

・みじか夜や 毛虫の上に 露の玉(与謝蕪村

「夏の短い夜が明け始めた庭先では、毛虫の毛の上で露がキラキラと輝いているよ」という意味です。「みじか夜」と「毛虫」は夏の季語で、「露」は秋の季語ですが、「みじか夜」で夏の句です。

爽やかな作風で知られる蕪村らしい俳句。清々しい夜明けの空気が伝わってきますし、嫌われることの多い毛虫を、とても美しい存在のように感じさせるのは見事です。

・かりかりと 蟷螂(とうろう)蜂の かほを食む(山口誓子

「かりかりと音を立てて、カマキリがハチのかおを食べていることよ」という意味です。

「蟷螂」は「秋」の季語で、「蜂」は「春」の季語ですが、この句の季語は「蟷螂」で「秋」の句になります。

ちなみに「春」以外の季節の蜂を詠む時は「秋の蜂」「冬の蜂」などと季節を添えるのが普通です。ただし、この句では秋の季語である「蟷螂」がメインなので季節が明らかなこともあり、字余りにもなりますので、単に「蜂」としています。

「薔薇」は夏の季語で、「春薔薇」「秋薔薇」「冬薔薇」とそれぞれの季節の薔薇が独立した季語となっているのと同じです。

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