川島芳子は美しすぎる女スパイ。本名は愛新覺羅顯玗の中国人で男装の麗人の異名!

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川島芳子

「スパイ」と言えば、MI6エージェントのジェームズ・ボンドを主人公とした映画「007」を思い浮かべる方も多いと思います。

007

しかし現実にも「スパイ」は多数存在し、世界中でさまざまな諜報活動を行っています。政治的なスパイだけではなく、「産業スパイ」もいます。我々一般国民の目には触れません(知られていません)が、正体を隠して活動しています。

世界各国の大使館や公使館に駐在する「外交官」や「駐在武官」は、さまざまな「情報収集活動」を行っていますが、広い意味では「諜報活動(スパイ活動)」です。

また世界各国の「情報機関(諜報機関)」としては、アメリカのCIA・FBI、ロシアのGRU・SVR(旧ソ連のKGB)、イギリスのSIS(通称MI6)、韓国のNIS、イスラエルのISIS(通称モサド)、フランスのDGSE、ドイツのBNDなどがあります。

なお「20世紀最大のスパイ」として有名なリヒャルト・ゾルゲについては「ゾルゲは日本で処刑されたソ連のスパイ。最近ロシアが愛国教育に利用し英雄化!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

また、大谷翔平が尊敬しているという中村天風も「軍事探偵」というスパイでした。中村天風については「中村天風とは?松下幸之助や大谷翔平も感銘した中村天風の哲学と名言とは?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

日本のスパイ事情については「日本はスパイ天国!?スパイ防止法と諜報機関設置は必須!ファイブ・アイズ加入も」、産業スパイについては「日本の半導体産業はどうしてダメになったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

映画や小説で美女スパイが「ハニートラップ」を仕掛けるというストーリーがありますが、フィクションではなく本当に「ハニートラップ」を実行して敵の重要人物を誘惑し、世界大戦時の戦局を左右するほどの実績を挙げた人たちがいました。

そこで今回は、有名な「女スパイ」である川島芳子についてご紹介したいと思います。

1.川島芳子とは

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川島芳子(かわしまよしこ)という名前は川島家の養女となった時つけられたもので、実際は中国人で、満州皇族の娘であり、生まれた時は愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんし)といいました。

8歳のとき、日本のスパイ川島浪速の養女となり、生みの親の死後、東京にやってきました。
目を引くほど美しく、バイセクシュアルな魅力をもっており断髪し男装するようになり、「男装の麗人」と呼ばれました。

2.川島芳子の生涯

(1)生い立ち

川島芳子(かわしま よしこ)(1906年~1948年)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もあります。

(2)川島浪速の養女となり川島芳子となる

8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速(かわしま なにわ)(1866年~1949年)(大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる)の養女となり日本で教育を受けました。

1915年に来日した彼女は当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学しました。やがて川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学しました。

陸軍松本連隊の山家亨少尉と恋仲になっています。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したということです。

1922年に実父粛親王が死去し、葬儀参列と遺産分配の話し合いのために長期休学しましたが、復学は認められず松本高女を中退しました。1923年には北京で愛新覚羅溥儀に謁見しています。

(3)男装の麗人

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになりました。断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが日本の新聞に掲載されました。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとへ取材記者なども訪れるようになり、「男装の麗人」とまで呼ばれるようになりました。

芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、当時の日本でちょっとした社会現象を巻き起こしました。

(4)結婚と離婚

女を捨てた決意文書と断髪・男装から2年が経った1927年に、彼女は旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャブと結婚式を挙げました。カンジュルジャブは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していました。

結婚生活は長くは続かず、3年ほどで離婚しました。離婚後に上海に渡った芳子は、1930年に上海駐在武官の田中隆吉少佐と出会い交際するようになります。

そして田中とともに日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれています(田中隆吉の回想による)。また、彼女は後に国民党行政院長だった孫科(孫文の長男)とダンスホールで接触して国民党内部の情報を入手し、この件で孫科は失脚したということです。

(5)満州国建国の陰で

1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満洲事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津から満洲へ脱出します。

彼女はこの時、溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務に携わりました。

田中の回想によれば、同年末に関東軍参謀の板垣征四郎からの依頼を受けて、第一次上海事変のきっかけとなった上海日本人僧侶襲撃事件を田中が立案しており、関東軍から提供された2万円を使って中国人を雇って日本人僧侶を襲わせましたが、この際に実行役を集め、報酬と引き換えに襲撃を実行させたのが彼女だった、とされています。

ただし、田中隆吉は戦後東京裁判で連合国側の証人として出廷しており、自己の責任を他者に転嫁するなど、その発言の信憑性には疑問があります。彼女との関係や彼女が諜報活動に携わったというのもどこまでが真実かは不明です。しつこくつきまとう田中に彼女がうんざりしていたという証言もあります。上海事変のきっかけに彼女が関わったというのも田中隆吉の回想以外の記録には見られません。

(6)東洋のマタ・ハリ

1932年3月に、関東軍が溥儀を執政として満洲国を樹立させると、彼女は新京に置かれた宮廷での女官長に任命されますが、実際に就任することはありませんでした。同年に彼女をモデルにした村松梢風の小説である『男装の麗人』が発表され、彼女は「日本軍に協力する清朝王女」としてマスコミの注目を浴びるようになります。

1933年2月になり、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、彼女が総司令に就任しました。このニュースは日本や満州国の新聞で大きく取り挙げられ、芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれました。

断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かったこともあり、彼女は一躍マスコミの寵児となりました。

当時はラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露すると、それがきっかけでレコードの依頼があり、『十五夜の娘』『蒙古の唄』などのレコードが発売されるなど、非常に人気があったことが知られています。

作詞者としても1933年に『キャラバンの鈴』(作曲:杉山長谷夫、唄:東海林太郎)というレコードを出しています。同年には、小説「男装の麗人」が連載されていた『婦人公論』誌に「僕は祖國を愛す」と題された独占手記も掲載されました。

私生活においては、伊東ハンニ(「昭和の天一坊」と騒がれた相場師)と交際したと言われています。 また、水谷八重子など当時の芸能人とも親交を結びました。

(7)転機

1934年当時から、彼女は国内外の講演会などで関東軍の満洲国での振る舞いや、日本の対中国政策などを批判したため、軍部や警察に監視されるようになっていました。マスコミに取り上げられることもこの頃を境に急激に減っていきました。

また、鎮痛薬のフスカミンを常習するようになったのもこの時期で、自ら注射器で足に注射している様子が目撃されており、この時期に負った何らかの負傷の鎮痛のため、当時の多くの軍人達と同様に鎮痛剤へ依存するようになった可能性が示唆されています。

1937年7月末に天津が日本軍に占領されると、芳子は同地で料亭「東興楼」を経営し、女将になりました。この時期に彼女は、国粋大衆党総裁で外務省・海軍と協力関係にあった笹川良一と交際していたと言われています。

(8)孤独

彼女は東興楼時代に知人の紹介で知り合った日本人の李香蘭(本名:山口 淑子。歌手・女優で後に参議院議員)(下の写真)を実の妹のように可愛がり、「ヨコちゃん(彼女がつけた李香蘭の愛称。李香蘭の本名の読みが同じ「よしこ」であったため)」「お兄ちゃん」と呼び合うほど親しい間柄となりました。

李香蘭

しかししばらく後に、彼女の悪評を耳にした李香蘭の関係者が東興楼への出入りを禁じたため、彼女と李香蘭の間に交流があったのはごく短い期間でした。

これについて李香蘭は自著の中で、「軽い気持ちで東興楼へ足を運んだところマネージャーに厳しく叱られ、そしてある時期を境に芳子もよそよそしい態度を取るようになり、会いにくくなった」と述べています。

その後、李香蘭の元へ彼女から直筆の手紙が届き、そこには「ヨコちゃん、すっかり君も大スターになったな。もう君と会うことは無いだろう。君は自分の好きなこと、信じることだけをやりなさい」「僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる」と記されていたそうです。

李香蘭は「普段の芳子はプライドが高い厳格な人物であり、心の中にある本音を語るにはこうした方法(手紙)をとるしか無かったのではないか」と述懐しています。

また、この頃から彼女は孤独感に満ちた短歌を詠むようになりました。さらに1941年12月から1945年8月まで日本も参戦した第二次世界大戦中は満州国を出ず、戦時下で目立った活動はしていません。

(9)逮捕・処刑

1945年8月の日本敗戦以降、各地に潜伏していた彼女は10月になって北平で中国国民党軍に逮捕され、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下されました。

なお、川島浪速は粛親王の孫娘で彼女の姪にあたる愛新覚羅廉鋁(レンロ)を養女とし、川島廉子(1913年〜1994年)として入籍させました。当時の国民党は、彼女の諜報活動の詳細が明らかになることで、党内の醜聞が暴露され、急下降していた国民党への評価が決定的に傷付けられてしまうことを恐れ、また1947年時点での国共内戦の戦局は北平周囲の華北一帯が既に中国共産党軍の攻撃にさらされるなど国民党側に不利となりつつあり、溥儀や溥傑などのように愛新覺羅家の一員である彼女を中国共産党が利用することを恐れ死刑を急いだと伝えられています。

日本では本多まつ江などが助命嘆願運動を展開しましたが、日本は連合国の占領下にあるため間に合わず、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処されました。

芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって引き取られ、後に信州の浪速のもとへ届けられました。1949年に浪速が死去すると、彼女の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られました。

(10)辞世

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん

この詩は、芳子が銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた辞世の詩だということです。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という上の二句は芳子が生前好んで揮毫していた句であり、芳子の孤独な心情を表しています。

3.川島芳子のスパイとしての実績とは

1931年に満州事変が起こり満州国が建国され、清朝皇帝が満州へ脱出しました。この時、彼女は皇后を満州へ脱出させました。

また、上海事変のきっかけとなる上海日本人僧侶襲撃事件を引き起こしたといわれます。

1945年、日本が敗戦となり満州も消滅し、中国国民党から日本側に協力した「漢奸」(かんかん)として逮捕され、国共内戦の中で死刑に処せられました。


川島芳子 動乱の蔭に (人間の記録) [ 川島芳子 ]