「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。
今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。
そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。
川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。
第7回は「鎌倉・室町時代①」です。
1.源頼朝(みなもとのよりとも)
・お頭(つむり)をやっと入れると鳩が飛び
・政子御前の迷惑な膝枕
・拝領の頭巾(ずきん)梶原縫い縮め
源頼朝(1147年~1199年)は、源義朝の三男。「平治の乱」に敗れて、1160年伊豆に配流され、以後20年間流人として過ごしました。しかし1180年に挙兵し、「石橋山の戦い」で敗れたものの、安房国に逃れて反攻し、やがて平氏を滅ぼして鎌倉幕府を創設しました。
「平治の乱」に敗れ、伊豆に流されていた源頼朝は、1180年に平家打倒をめざして挙兵しましたが、「石橋山の戦い」で平家軍に敗れます。敗走する頼朝が大きな臥木(ふしき)の洞(うつろ)に隠れたところを、平家方の梶原景時が見つけますが、助けようと思った景時は、洞の中には誰もいないと告げます。
しかし、一緒にいた大場景親(おおばかげちか)がなお疑って、弓で洞の中を探ってみますが、鳩が二羽飛び出してきたので、やっと信用して立ち去り、頼朝は助かりました。
最初の句は、頼朝が臥木の洞にお頭をやっと入れて隠れていると、鳩が飛んで助かったという意味ですが、人間が隠れるような大きな洞なのに不思議な気もしますね。これは、頼朝の頭が非常に大きかったという俗説を踏まえたものです。
妻の政子は、大頭の頼朝に膝枕をされると、足がしびれて大迷惑しただろうと想像したのが2番目の句です。
梶原景時は、この一件のおかげで後に頼朝に重用されますが、頼朝から愛用の頭巾を拝領しようものなら、縫い縮めないと使えなかっただろうと想像したのが3番目の句です。
2.北条政子(ほうじょうまさこ)
・いい夢を政子御前は買い当てる
・右兵衛(うへえ)さんよしなとお政初手(しょて)は言い
・一盛り六十余州後家差配
・細い手で尼将軍は世を握り
北条政子(1157年~1225年)は、伊豆の豪族北条時政の長女で、源頼朝の正室です。息子の頼家・実朝の死後、幕府の実権を握り「尼将軍」と呼ばれました。
最初の句の「政子御前」とは、北条政子のことです。伊豆の土豪の娘から鎌倉幕府の将軍の妻になったのですから、確かにいい夢を買い当てたと言えそうですが、この句には別の物語が含まれています。
政子がまだ頼朝と結婚する前、政子の妹(阿波局)が「月日が袂に入る」という夢を見たと政子に告げました。これはめでたい夢だと直感した政子は、妹に鏡と小袖を与えてその夢を買い取ったという話が『曾我物語』にあります。
その後、政子は頼朝と結婚、まさにいい夢を買い取る結果となりました。しかし、いくら男勝りの政子でも、最初は少し恥じらっただろうと想像したのが2番目の句です。
「右兵衛」とは頼朝のことで、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)という官位をもらっていたので、こう呼びます。頼朝が言い寄ったとき、政子も最初は「よしな」と拒絶しただろうというわけです。
政子は、頼朝の胤(たね)が三代で絶えた後も、傀儡将軍の後見として幕府の実権を握り、世に「尼将軍」と言われました。これを詠んだのが、3番目と4番目の句です。
3.梶原景時(かじわらかげとき)
・外方(げほう)めと申しましたと讒(ざん)をする
・言っ付けるとは梶原が元祖なり
・逆櫓(さかろ)より出事(でごと)を主(おも)に讒をする
梶原景時(1140年?~1200)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。「石橋山の戦い」では、平家方でありながら頼朝を救い、以後頼朝に仕えて重用されます。しかし、頼朝の死後、御家人の弾劾を受けて失脚し、1200年に幕府軍に追われて討ち死しました。
梶原景時は、頼朝に讒言して義経を失脚させたことで有名で、川柳では「讒言ばかりする大の嫌われ者」となっています。
最初の句の「外方」とは、「外方頭(げほうがしら/げほうあたま)」の略で大頭のことです。ここでは、大頭だったと言われる頼朝への悪口です。
2番目の句の「逆櫓」とは、通常とは反対の向きに取り付ける櫓のことで、こうすることで戦の時に船を機敏に動かせるようになるのです。「屋島の戦い」の時にこれを付けるかどうかで、景時と義経の間で対立があり、これが後に梶原の讒言につながったと言われます。
「出事」とは情事のことで、壇ノ浦で平家が滅びた時、入水した建礼門院(安徳天皇の母・清盛の娘)を義経が助け、情事に及んだという俗説を踏まえたものです。
4.吉田兼好(よしだけんこう)
・僧正のかんしゃく杣(そま)を呼びにやり
・いよ鼎(かなえ)ぶっさらいだと初手(しょて)は誉め
・芋屋から書き出しの来る説法場(せっぽうば)
・辛(から)き目を見せてくれんと大根武者(だいこむしゃ)
吉田兼好(1283年頃~1352年頃)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての遁世者・歌人・随筆家です。俗名は卜部兼好(うらべかねよし)
吉田兼好は、言うまでもなく『徒然草』の著者です。そこで今回は『徒然草』にまつわる句をご紹介します。
最初の句は、僧正が癇癪(かんしゃく)を起こして杣(きこり)を呼びにやったというのですが、これは第45段の「榎木(えのき)の僧正の話」を詠んだものです。
寺の傍らに大きな榎木があったので「榎木の僧正」と呼ばれるのに腹を立てて切り倒したら、切り株が残ったので「きりくいの僧正」と呼ばれ、切り株を掘って捨てたら堀になったので「堀池の僧正」と呼ばれるようになったという話です。
2番目の句の「ぶっさらい」は、人気を独占することです。最初のうちは「いよ、鼎、日本一!」などと誉めていたのだが・・・というのですが、これは第53段の「鼎舞(かなえまい)の話」を詠んだものです。
仁和寺の稚児が酔っ払って鼎を被って踊ったら、抜けなくなってしまった。どうしようもなくなって、藁しべを差し込んで引っ張ったら、耳や鼻が欠けながらも抜けるには抜けたという話です。
3番目の句は、説法をしているところへ、芋屋から「書き出し」(請求書)が来るというのです。これは第60段の「芋喰い和尚の話」を詠んだものです。
盛親僧都(じょうしんそうず)という和尚は芋が大好きで、師匠から譲り受けた銭二百貫と寺一軒を全部芋を食べる代金に充ててしまったという話です。
4番目の句は、「ひどい目にあわせてくれよう」と大根の武者が出てきたというのですが、これは第68段の「大根武者の話」を詠んだものです。
ある人が長年大根を食べ続けていたら、敵に襲われた時に大根が武者になって現れ、敵を追い返したという話です。
5.藤原定家(ふじわらのていか)
・もみじ葉(ば)を筆ではねはね御選(おんえら)み
・御選(おえら)みのしおりにもなる紅葉(もみじ)なり
・一二首はもみじの照りで選むなり
・九十九(くじゅうく)は選み一首は考える
・味方見苦しいも定家一首入れ
・御父子(ごふし)して千と百とを御選(おんえら)み
藤原定家(1162年~1241年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、父も公家・歌人の藤原俊成です。『新古今和歌集』の選者の一人であり、『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の選者でもあります。歌学者・古典学者としても業績をあげました。
『小倉百人一首』は、藤原定家が京都嵯峨野・小倉山の時雨亭(しぐれてい)で選んだとされています。
小倉山は古くからの紅葉の名所ですので、定家は時雨亭に飛び込んでくる紅葉の葉を筆で払いのけながら歌を選んだだろうと想像したのが最初の句です。
もっとも、紅葉は邪魔になるだけでなく、栞(しおり)に使ったり、紅葉の照り返しを明かりに利用したかもしれないと想像したのが2番目と3番目の句です。
4番目と5番目の句は、『小倉百人一首』の中に定家自身の歌が入っていることを詠んだ句です。ちなみにその歌は、「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしお)の身もこがれつつ」です。「味方見苦しい」とは、味方贔屓(みかたびいき)は見苦しいという意味ですが、自分の歌を入れたこととも取れるし、父の藤原俊成の「世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」という歌を入れたこととも取れます。
父の藤原俊成は『千載和歌集』の選者ですが、子の藤原定家が『小倉百人一首』を選んだことを踏まえたのが6番目の句です。
6.北条時頼(ほうじょうときより)
・味噌で呑むころは崩れぬ握り飯
・味噌をなめなめ時頼の数献(すこん)なり
北条時頼(1227年~1263年)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 ~1256年)です。父は北条時氏、母は松下禅尼。有力御家人の三浦氏と千葉氏を滅ぼし、「引付衆(ひきつけしゅう)」を新設するなど北条氏と幕府の強化に尽力しました。
「いざ鎌倉」の「鉢木(はちのき)伝説」でも有名です。また、建長寺を建立するなど禅に深く帰依しました。
北条時頼は鎌倉幕府第5代執権で、晩年に出家した後は「最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)」と呼ばれました。政治家として高く評価され、全国を回って民情を視察したという伝説(鉢木伝説)などいくつかの物語が伝えられています。
最初の句は、『徒然草』215段の「平宣時の昔話」を踏まえたものです。
平宣時の昔話によると、ある夜、時頼に呼ばれて行くと「酒を一人で飲むのもつまらないので呼び出したのだが、何か肴はないか?」と言われたので、あちこち探して小さな土器(かわらけ)に味噌が少しついているのを見つけて持っていくと、「それで十分だ」と機嫌よく飲まれた。このように時頼はとても質素な生活をしておられたということです。
「握り飯」は、北条氏の家紋「三鱗(みつうろこ)」(下の画像)を三角形の握り飯に見立てたものです。
つまり、味噌で酒を飲むような質素な名君時頼の政治の頃は、北条氏は崩れを見せず安泰だったというわけです。
2番目の句は、俺たち江戸っ子も肴がない時は味噌で飲んだりするが、あの偉い時頼さんも同じようなことをしたんだねという意味です。
7.佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)
・手打ちだと常世信濃がものはあり
・さて今朝は何を食おうと源左衛門
・やれ根太はよしゃれよしゃれと最明寺
・佐野の馬離れ山でも二度倒れ
・それぞれに焚(た)いた木の名の御返報(ごへんぽう)
佐野源左衛門常世(生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士だったとされる人物で、謡曲『鉢木(はちのき)』の主人公です。
上野(こうずけ)国佐野に住む源左衛門は、ある雪の夜に旅の僧を泊めて、粟飯を振る舞い、秘蔵の鉢植えの梅・松・桜を焚いて歓待します。そして一族の横領で落ちぶれているが、鎌倉で何かあれば、一番に駆け付ける覚悟だと話します。
後日、鎌倉から諸国の武士に召集がかかり、源左衛門が痩せ馬に乗って駆け付けると、過日の僧は、実は前(さきの)執権最明寺入道時頼で、旧領を安堵した上、鉢木の礼として梅田・松枝・桜井の三荘を与えるという話です。
これを詠んだのが5番目の句です。
最初の句は、焚いた木の名にちなんだ所領を与えられたのだから、もし源左衛門が手打ちそばを振る舞っていれば、信濃国ぐらいは貰っていたはずだという意味です。
なけなしの粟飯をご馳走してしまって、源左衛門は、翌朝食べ物に困っただろうというのが2番目の句です。
鉢木だけでは足らず、根太(床板)まではがして焚きそうなのを止める時頼を詠んだのが3番目の句です。
飼い葉もろくに食っていない痩せ馬は、鎌倉の手前の離れ山で二度も倒れる始末を詠んだのが4番目の句です。